2つの期待
 

 この旅行の謳い文句の1つは、野生のチューリップが咲き誇っている広大な原野を眺めることでした。旅の最初の感動シーンとして掲げられていました。それが空振でした。

 大型バスでここらあたりというところまで分け入り、あとは下車して原野に踏み込みました。確かにありましたが、すでに花ガラもなく、半月ほど前に咲いていたであろうという痕跡です。

 誰かが、来る道で一輪だが「咲いていた」と言い出しました。即刻皆でとって返し、「このあたり」というところを探しました。たった一輪でしたが、小さな赤い花がありました。たとえ一輪とはいえ、あるのとないでは大違いです。私は積極的に発言しました。自然は人間の思うようにはならない。「この花が,この原野に、一面に咲いている光景を瞼に描きましょう」

 もう一つの期待も裏切られました。それは大学で学んだ西洋美術史の時間までさかのぼる期待でした。トルコ旅行にはつきものといわれる旧都イスタンブールにあるアヤソフィア博物館の見学です。イスラム教徒が、キリスト教会をつぶさずに見事にモスクに仕立て直した、と学んだように記憶しています。その可能性は、旅の最終日に消え去りました。もうすぐイスタンブールいうバスの中でアヤソフィア博物館は休館、といいだしたのです。すかさず私は「臨時休館ですか」と質しますと、添乗員は「月曜日は定期休館日でした」と応えました。

 本来の私でしたら、ここで添乗員を叱っていたと思います。不満が鬱積していたからです。一例を上げれば、400段以上の登り降りをする渓谷を見学しました。ドイツ人と一行はキャラバンシューズやストックで身を固めていましたが、いわばわたしたちは丸腰状態でした。事前に届けられたチェックリストにはパスポートから爪切りまで細々とリストアップされていましたが、肝心の懐中電灯やストックが抜けていたように思います。また、アヤソフィア博物館は見学できない、も不可欠の事前情報だと思います。
 
 しかし私は叱ることを控えました。そして「私も不親切になったものだ」と自己卑下しました。親も切りかねないほどの親切も、相手の成長を願って深く切り込む深切も控えてからです。

 
ホテルに飾ってあった写真