取り組み姿勢
 

 「机で学ぶ」と「体験を伴った学び」の差を、まず心得てもらおうと思っています。頭で理解しただけでは、評論家的にはなれるでしょうが、応用力をやしなったり、実践的に働く人にはなりにくいことに気づいてもらいたいのです。

 次に、実践力を体験的に身につけるだけでは仕事にならないことに気づいてもらいたく思っています。あくまでも経験的に働く力を身につける必要があるのではないでしょうか。それがしにくいところに今日の問題の1つがあるように思います。

 農業時代は、農業をはじめとして多くの人が生業で生きていました。ですから子どもは両親が働く姿を、いわゆる背中を見て育ち、真似ることから始まっています。つまり、経験的に取り組み始めるのが常でした。

 そして、弟子のような立場になって働いてみて、その総合的な力量に格段の差があることを思い知らされ、大人の力に経緯を表したり憧れたりしながら、身の程ほどをわきまえた、向上心を燃やしたりしたのではないでしょうか。

 工業社会は働く大人と子どもを切り離しがちです。しかも働く大人が分業化専業化され、ロボットのようになりがちです。おのずと子どもはマニュアル通りに動く以外に自信を持ちにくい人に仕立てられ、指示待ち族になりがちではないでしょうか。

 それよりもなによりも、日割り書生は、人間は「自然を活かして栄えてきた」と思いこんでいるようです。私は、そうではないところに問題があることにまず気づいてもらいたく思っています。

 このたびは、そうした意識のもとに、庭のキャベツを例に伝えようと努めました。
 
 今の時期は、農薬を用いないで育てるキャベツは青虫などに狙われ、とても大きな被害を受けます。しかし、一様に受けるのではなく、とてもバラつきがでます。集中的に狙われるのがあるかと思えば、殆ど受けないのがあるわけです。

 青虫は、すべてを狙えば、その弊害が自分たちの身に降りかかってくる、とでも考えているのではないか、と思いたくなるほどです。集中的に狙われて種を結べなくなるキャベツも現れますし、狙われずに、見事に種を結ぶのもあります。

 狙われるのと狙われないのがなぜ生じるのか。何がその差を生じさせるのか。この点を気にかけて見つめていますと、そこには一つの法則があるように思われます。

 その法則からいえば、このたび死んだウリボウは母親に見捨てられたに違いない、と思われてなりません。それだけに不憫です。

 要は、野生生物は未来世代が困らないように配慮しているのではないか。あるいは本能の中に、そうしたプログラムが組み込まれているに違いない。と思わせられることです。それが本当の「自然を活かして栄えてきた」事例でしょう。もしそうなら、未来世代のことに配慮出来ない人間は、自然を破壊して栄えてきたことになります。

 このたびも夜分に畑に出て、ヨトウチュウ(夜盗虫)を捕りました。そして、捕った虫を見つめながら、感慨にふけりました。

 かつては異常事態をよく生じさせましたが、そのときは私たちが自然の摂理を無視したり、心得ずに無茶なことしでかしたりしていたようだ、と気づかせられています。

 

集中的に狙われる

殆ど受けないのがある

集中的に狙われて種を結べなくなる

ヨトウチュウ(夜盗虫)を捕りました