次元が上の意識
 

 『こつなぎ』の関西プレミアム上映会が先週末にありましたが、その前日の金曜日に、この映画のプロデューサー・菊地文代さんをわが家にお迎えし、数時間も語らいました。文代さんの今は亡きご主人・周さんは、60年安保闘争に関わった人でした。同氏は、私が商社に勤め、独身寮の仲間たちと「日本の尖兵になろう」と力んでいた頃に、小繋村で生じた「入会権」を争う裁判の行方を熱心に追っておられたわけです。つまり、小繋山に所有権者を決める制度ができるはるか以前からあった「入会権」を主張する村民と、にわか所有権者に与した村民とで村を2分した事件を、熱心に追っておられた1人です。

 そのさなかの1962年に私は商社に勤めていますが、その年にアメリカで発売された『沈黙の春』にさえ私はまったく気づいていません。いわんや「小繋事件」など知ろうはずがありません。たとえ愛読紙が記事にしていたとしても、私は気にもとめていなかったと思います。

 ケネディ大統領は、『沈黙の春』の著者レイチェル・カーソンを、キューバ危機のさなかにホワイトハウスに招いていますが、この事実さえ勤めた商社内では話題になっていません。思えばホケネディ大統領は、一発触発のソ連との核戦争を外患とすれば、『沈黙の春』が提起した環境汚染問題を内患として同等に憂いていたのでしょう。にもかかわらず、我が国の繊維業界はもとより、社会の動向に敏感だと自負するファッション業界も、まったく感知していなかったのです。商社員が愛読していた新聞は記事にしていなかったはずです。

 ここに私は次元の違いを感じたのです。次元が異なる話題は、誤解や曲解だけでなく、反発しあいかねません。そこで私は次のように、ソフトタッチでトークを始めました。「もし山がしゃべれたら、(どちらに与するか答えてくれるので)簡単に片付いていた事件だと思いました」「近年,山が荒れたと言われますが、それは入会権のもとに山に入る人がいなくなったせいでしょう」。「『沈黙の春』が、私たちの身体への侵害問題をとりあげていたとすれば、『こつなぎ』は私たちの精神への侵害問題を取り上げていたわけです。この映画に、私は近年のさまざまな社会現象や問題、たとえばシングル、独居老人、貧困層、あるいは孤独死や自殺など数々の社会問題や現象の根を見たような気分にされました」と。

 工業社会は、お金さえあれば誰にでも1人でも生きて行けそうな気分にさせておきながら、今やリストラや就職難など、そのお金の道を断ち切るような仕打ちをしています。この仕打ちを工業社会の罠とすれば、罠にはめられた人の多くは、小繋村に見られたような助け合いの精神と、自然の摂理を尊重する心が支えた「入会権」など、相互扶助と共有財産を尊重する意識をわずらわしく思い始めたときからはまり始めていた、と見てよいのではありませんか。

 要は、私が「日本の尖兵になろう」と力んで物質的に豊かな国を標榜していたときに、周さんはそのモデルとしていた国と結ぼうとする条約を憂いていたのでしょう。その陰で「こつなぎ」事件が進展しており、半世紀にわたって国と渡り合った人たちがいたわけです。彼らは裁判を通して国の判断をあおいだわけですが、期待に反した回答を引き出ています。

 この寒村での貧しい生活を強いられていた人たちは、私たち業界人や国を支配する人たちよりも、つまり、人間中心主義となって、水や空気を汚したり地下資源を空にしたりしかねない工業社会を容認し、謳歌した人たちよりも「次元が上の意識に燃えていた」と、私は見たのです。

 その1人、山本清三郎さんは「われわれは土から生まれた土の子どもでしょう」「土があってはじめてわれわれは生きている」「山でも川でも地球の一部分でしかないでしょう。これが誰のものというのは変なんです。我々は地球の子供なんだから」と、語っています。

 こうした生き方や考え方に達していた人たちの姿に触れて、私は打ちのめされました。なぜ半世紀以上も前の我が国で、こうした発想ができたのか不思議でした。

 結局、この事件では民事で和解が成立しています。小繋山のにわか所有権者が、歴史的に山を活かしてきた村民に、山の一部を提供する。その山の一部を、所有権者に与した村民と「入会権」を主張した村民が心を1つにして共有財産にする、という和解です

 トークショウがあった翌朝、トークショウに私を呼んでくださった影山理さんからメールを頂いたのですが、私は次のような部分を含むメールを返しています。

 「こつなぎ」村の人々は不思議でも何でもなく、山川草木悉皆成仏という日本仏教の教え従っていたのだ、ということに気付かされています。

 この事件では、刑事裁判も生じています。「入会権」の主張者は、明治になってできた森林法によって樹木ドロボウと見られ、刑事被告にされたわけです。そして高裁かけでなく最高裁でも敗訴しますが、その前の一審では勝訴していたのです。一審の判事は入会権を、つまり大昔から守られてきた文化を容認したわけでしょう。

 私は今、次の2つのことに心を奪われています。刑事事件一審で勝訴させた判事のその後の人生と、共有財産となった山の一部のその後のことです。

 勝訴させた判事はその後栄進したのか否か。そして、山の一部を共有財産とした村人は、今も共有財産として尊重しあっているのか否か。つまり、共有権を相続した息子や娘が、あるいはその配偶者が、分筆を求め、転売したいと言い出していないか否か、とても気になります。