このたび、これまで余暇時間と見てきた時間を2つに分けることにしました。これまでは、「働く時間」、「生理の時間」、そして「その他の時間としての余暇時間」の3つに分けてきましたが、ひとくくりにしていた余暇時間を2つに分け、「第3の時間」と呼ぶ「人の人たるゆえんの時間」を浮き立たせることにしました。
つまり、第1の時間は生きる糧を手に入れるために「人」ゆえに割かざるをえない時間です。人は何らかの形で、「人」ゆえにお金を支払ってくれる人やヒトの意向を尊重せざるをえない時間です。
第2の時間は「ヒト」としての時間といってもよさそうな生理的な時間です。サルやウマなどと同様にヒトも生きるうえでの必然の時間、眠ったり食べたりしなければならない時間です。いわば人がヒトにであったころからたいして替り映えがしない時間です。
第3の時間は、ヒトが人として生きるようになってから割かざるを得なくなった時間です。自分や家族のために、穀物や家畜を育てたり、調理をしたり、より眠りやすい寝床を用意したり、薪を用意して風呂をたいたり、子どもをあやしたりしつけたり、衣服をつくったり繕ったりする時間です。わが国は、これを「道(どう)」と呼ぶまで高度化した、とても大切にしてきたように思います。
生涯時間からこうした時間を差し引いた残りの時間を第4の時間とし、余暇時間と呼びなおすことにしたのです。この時間は、過ごし方次第で、「ヒト」と「人」の峻別がとても微妙になる時間です。たとえば「人」らしい食べ方や飲み方もあれば「ヒト」なみのそれらもあります。つまり、「ヒト」なみの時間の過ごし方を「人間的」とみるか、「人」らしい過ごし方を「人間的」とみるかが問われる時間だと思います。
ひるがえってみますと、工業社会は、この第3の時間を生涯時間から次々と不要にしてきました。そのために即席食品や既製服をはじめ、上下水道、保育園や介護センターなど、既製のモノやコトを用意してきました。そして機械化をすすめ,その機械を生み出したり操作したりするために分業化や専業化をすすめ、マニュアルを作り、日常生活のありようを大きく変えてきたのです。たとえば鶏を飼うことから始めていた「かしわのすき焼きを」を食べる上での役割を、つまり元来は自分で,あるいは家族で受け持ちあっていた役割を、企業や公的組織などに依存し、あるいはいまだに農業社会にとどまりがちである国や地域の人々に負担させてきました。うらがえしていえば、「おふくろの味」などなんらかの創造的な行為をともなった「日常的な時間」から、つまり「個性的あるいは個別的であった日常」から工業社会は人々を解放してきました。本来は自分で、あるいは家族のために創出していたモノやコトを、最大公約数的な意向を推し量って機械的に大量に生み出されモノやコトで代替させてきました。そして、それを「非日常」として歓迎する社会風潮を蔓延させ、まるでかつての支配階級のような気分にさせてきたきらいもあります。
そしてその日常から非日常への転換にもことごとくお金を介在させ、そのお金の額が今ではGDPの過半を占めるにいたる社会に仕立てあげ、そのGDPを豊かさや幸せのバロメーかのように位置づけてきました。あげくのはては、そのお金の動きにまで課税し、その課税率を次第に高める傾向にあります。
要は、「こつなぎ」は「すべての土地から現金を徴収する」ことを目的にして実施された地租改正に異議を申し立てた事件であったとすれば、私は人をヒト化するかのごとき社会にしてきた風潮自体に意義を申し立てたい。
機械や資本の力で日常生活を非日常化することによって、大げさに言えば呼吸権以外のあらゆる権利を規制化し、たとえば下水道の普及と井戸水の使用規制をリンクさせるなどして、つまりヒトとしての営みまで現金を徴収することを目的としたかのような社会にしてきた風潮に疑問を呈したい。
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