思うところがあって
 

 担当医は実に丁寧に、私にも判り良く、病状の経過と見通しなどを話してくれました。判り良くとは、私と一緒になって、私の乗り物、つまり私の体の生かし方を考えてもらえたことです。さあ私は、私の乗り物をどう使うか。もちろん私は、私の体は妻の持ち物でもあるとの自覚をしています。

 一番あってほしくないことは、私の体の状況と私が創りだした自然循環型の生活を誤って結びつけられかねないことです。つまり、「あのような生活が、寿命を縮めた」と誤解されかねないことです。現実は逆で、この生き方を選んだから、私はこのような乗り物をここまでうまく乗りこなせたのだ、と固く信じています。

 確かに当初は、肺浸潤(肺結核の初期症状)が原因で一か八かで踏み出した生き方でした。この程度の勤労に耐えられないようなら、いっそのこと死んでしまえ、と考えていたように記憶しています。ところが、どんどん快方に向かったのです。

 入社試験では許可を得るのに手間取りましたが、最初の業務命令は、「君はまず君の体を完治させること」「それまでは残業禁止」であり、寮に入れられたことは『エコトピアだより』で触れたとおりです。ですから、週末は京都に帰り、農作業に専念しました。就職できなければ、ここで生きようと考えていた空間です。

 いわば死を覚悟して始めたような農作業が、仕事で生じるストレスも解く時間と空間になったのでしょう。やがて、単純な農作業を繰り返していると、次第に私がまともな人間になってゆくように感じられ始めたことです。まともな人間とは、おそらく人間以外の動物では望めない生き物だと実感することではないでしょうか。つまり「私」と「私の乗り物」を分けて考えることができる生き物だとの自覚です。

 その自覚は、ついに、乗り物の是非を気にするよりも、私と私の乗り物のいずれを主にするかの選択の方がはるかに重要であろう、と気づかせたことです。

 余談ですが、それが1988年の『ビブギオールカラー』という処女作で、人間の脳について触れ、問題提起させました。脳が話題になるはるか以前のことです。

 霊長類は3つの脳を持つ動物であり、人間は霊長類の時代に脳の一部である前頭葉を異常に肥大させた動物である点をまず指摘しました。そして、爬虫類時代にそなえた脳を「トカゲ脳」と呼び、トカゲ脳を主 (にして肥大した前頭葉を従) にする場合と、肥大した前頭葉を主にする場合とでは、大きな差が生じそうだと訴えたわけです。

 もちろんトカゲ脳が下等だとは思っていません。第一、トカゲ脳だけで生きている動物が深刻な環境問題を生じさせた事例を知りません。問題は、人間なのにトカゲ脳(のアクセル部分)に支配されて、人間ゆえに備えた前頭葉を悪用し、トカゲ脳のブレーキ部分を自ら破壊してしまいかねないことだ、と気付かされたわけです。

 このたびの担当医は、私と一緒になって、私の乗り物の生かし方を考えてくれているように感じました。そこで、薬の服用を続けることにしました.同時に、もし心臓の機能が正常の域に達すれば、服用をやめ、私の責任の下に自然治癒力の有無を確かめたい、との願いを伝えました。それは担当医に私の体を実験台にしてもらえるはずです。

 もちろん、このお願いをする前に、担当医から次のような2つの助言を得ています。この病気は、最悪の場合はCRT-Dつまりペースメーカーの植え込みか、心移植になるが、わたしはそのいずれも望まない人であろう、と見抜かれていました。次に、薬の多くは植物の薬用成分を元にして生み出されたものであ(り、自然治癒の範疇とも考えられ)る、という2点でした。

 私は決して京都第2日赤の回し者ではありませんが、この担当医だけでなく、先の担当医を始め、かかわってもらった医師はもとより婦長や看護婦の皆さんにとても感謝していることを明らかにしたい。こうした人たちに、予防に專念できる医療システムを提供できない国は、決して先進国とは言えない、と思わされました。