医療問題
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NZでは、患者と医者、医者と看護婦間などの信頼関係を形成するために、上下関係や上下意識をなくすことにも努めています。また、治療にではなく予防に重点を置いていますし、医者には病状の「診断」と「治療」を峻別させています。 最高の医療は予防、つまり健全な体を保たせることでしょう。ですから近年、NZ政府は老人の「太極拳」学習を無償で受けられるようにしました。太極拳を学んで、続けていると、転ぶ率が減少するなど、確かな予防効果が認められることを知ったからです。 もちろん、丈夫な体をつくるうえで最も大切なことは、子どもの養育のあり方でしょう。近年は、中国や韓国からの移民が増え、いわゆる「学習塾」を作り始めているようですが、それまではなかったたといいます。逆に、いわゆる「スポーツスクール」に熱心です。海詩は、水泳、ダンス、空手など複数の「スポーツスクール」に通っていました。 健全な体は、頑強な体を作って保たせようとするだけでは片手落ちです。健全な精神を合わせ育むことがとても大切です。このたび、そのよき事例を目の当たりにする機会にも恵まれました。それは公立図書館を2度目に訪ねた時のことでした。 図書館を出ると、入口前に広がるテラス席でお茶を楽しむ大勢の人がいました。海詩がその中に、自分の主治医を見出したのです。主治医は仲間の個人医とお茶の時間を楽しんでいたようですが、海詩は駆け寄って、随分話し込んでいました。 海詩の両親と祖父母をふくむ私たち6人の大人は、海詩を遠目で見える位置にただずみながら、図書館のあるべき姿について語らっていました。主治医は気が済むまで海詩と話し込んだとみえて、海詩に案内させて両親のもとにやってきました。 海詩は主治医とさまざまな会話を交わしたようです。その折に、私たち夫婦が翌日日本に帰ってしまうことも話題にしたようです。その折の表現がとても良かった、と母親に伝えるためにやって来たのです。海詩は主治医と随分ご無沙汰であったようですが、それを心配していた主治医が、この海詩の表現を聞いて安心した、と母親に伝えたのです。 海詩はまだ時間の概念を習得しておらず、(私たち夫婦が)「お空の色が変わるまえに帰ってしまう」と話したというのです。私たちは友人の別荘で4回の夕食をとりましたが、いずれもテラスでとっており、前夜の夕食時の夕焼け空が最も美しかった。 主治医は、この海詩の表現に触れて、海詩が精神面でもとても健康な状態だと認めたようです。ならば身体も、と母親のみかに安心させたかったのでしょう。 NZは、患者が自己判断で、いきなり専門医を訪ね歩くようなことはさせていません。総合診断する個人医の中から自由に主治医を選ばせ、まず主治医に診断・分析させ、疾患の特定と病歴などの記録をさせます。そのうえで、どのような治療などが求められており、いかなる手を打つべきか、あるいは打てるのかなどを患者に説明させています。 総合診断できる個人医は、ドクターセンターと呼ばれる複数の個室と共同使用できる部屋などをそなえた施設を共同で設けているようです。共同使用できる部屋とは、たとえば手術室などだと聞きました。みかと海詩は最寄りのドクターセンターで同じ医者を主治医に選んでいました。父親はかつて決めた、そして今では遠方になったドクターセンターの医者を選び続けていました。もちろん、患者が専門医を変えることは自由ですから、海詩もいずれは独自の判断で主治医を見定め直すかもしれません。 医者は患者と一対一で接することによって患者のプライバシーを尊重し、心身両面から深部まで語り合えるように務めているようです。いわば、患者のすべてを理解できる立場を保ち、より正確に疾患を発見できるようにしているのでしょう。 医者は患者の病状を分析しますが、すぐには治療にかかりません。まず、いかなる治療方法があるのか、投薬する場合はいかなる薬があるのかなどを患者に開示します。その時は、コンピュータの画面を患者と一緒に覗き込みます。もちろん自分の手に負えない疾患であれば、患者が希望すれば専門医の紹介もします。 その課程で、「自然治癒力を高めることが第一よ」とか「この薬はまだ使ったことがないの」「でも評判が良いから使ってみる」などといった会話がかわされ、患者に自主判断を迫ります。自然治癒力で乗り切ろうとする人には、そのための注意をします。投薬を選んだときは後日「どうだった。効いた」といった質問を投げかけ、「ごめんね、もっと調べてから勧めたらよかったのにね」といった会話がかわされます。 ところで、診察代や治療費ですが、NZは不可抗力や善意の不注意などには寛大で、国が全額負担します。たとえば事故に巻き込まれて怪我をしたときなどは旅行者であれ、無料で治療してもらえます。逆に、患者の怠慢などにはとても厳しい。たとえば生活習慣病などは自己責任を厳しく求められるようで、手厚い救いの手を差し伸べてもらえません。そこで、不注意か怠慢か、あるいは故意かなどの判断が重要になりますが、その機関もあるようです。その好例は、旅行者の立場であるみかの母親がおかした失敗でしょう。 ある時、日本から持ってきた薬を間違って飲み込みました。カプセル入りの薬は銀紙とプラスチックで挟まれた個別包装の薬ですが、本来なら銀紙を破ってカプセルを取り出して飲まなければいけにところを、そうはしなかったのです。個別に切り放しはしたが、包装されたままの状態で飲んでしまったのです。あわてふためいて救急車を呼びました。 みかは、救急車出動代金は請求されるに違いないと見たようですが、後日それも無償と決まった、との知らせがありました。もっとも、同じ不注意をみかの母親が繰り返せば、救急車出動代金だけにとどまらず、治療代も請求されるのではないでしょうか。コンピューターに記録され、管理されているに違いありませんから。 そもそもNZでは、医療関係者は患者の不利益になることはしてはならず、治療にではなく、いかに病気にさせないようにするかという一点に力をいれているようです。それが評価の主対象にされているのではないでしょうか。 そこで思い出したことがあります。短大時代の思い出です。副学長はとても良心的な人で、今もコンタクトを保っています。かつて保健所長を務めた人であり、歯科衛生科の教授でした。その人が、真面目に誤解していたことがあったのです。 私は老齢化社会は通院しにくい患者を急増させかねないと睨み、歯科衛生士を訪問させ、予防に主眼をおいた処置をさせる医療を夢見ました。そこで、予防に精通した歯科衛生士に育てる方針を出そうしたのですが、副学長が真顔で「そんなことをしたら、患者さんが減ります」と異論を挟んだのです。 もちろん、今の生じてしまった治療に主眼をおいた日本の医療は、保険制度が破綻して当然のあり方だ、と思って順を追って説明し、すぐに理解してもらえました。つまり診療や投薬などに経費をかけるほど、医者の収入が増えるシステムは、病人を増やすベクトルになるだけですまず、保険制度を破綻させて当然でしょう。 それよりもなによりも大切な事があります。人間はココロを持っており、精密機械ではないことに日本の医者は早く気付き、気づけばいち早く行動に移し、自分たちの立場を高めようとしなければいけません。 患者に相談せずに、少なくとも事前の説明もせずに、100歩譲って事前に説明できなかった事情を伝えずに、いきなり担当医を変えたり、変えられたりするような社会を許しておいてはいけない。それが医療過誤問題を深刻にしている大きな一因だ、とこのたびのNZ旅行で気付かされました。 そのようなことを許しながら、治療や投薬などを増やさなければ収入が増えないシステムの社会のまま放っておいたら、さまざまな問題を生じさせて当然です。医者をキリキリ舞いさせかねません。患者の顔を見るゆとりがなく、コンピューターに打ち込まれたデーターにたよらざるを得ません。しかも、それで当然だと思っている医者を傲慢にします。 本来の医者のあり方は、まず患者の心をケアーすることです。さもなければ、究極の薬や技術が完成するまで、診断や治療を断らなければ矛盾を大きくしてしまいます。すべての治療を実験段階や訓練段階、あるいは成長課程にしてしまうからです。 患者にすれば、他の医者なら救ってくれていたのではないか、あるいは他の薬なら、とか同じ薬でも他の組み合わせなら救われていたのではないか、と考えて当然です。 そうではなくて、命を預けられる人なのですから、まず決意が求められていることを大切にすべきです。つまり、善き配偶者関係と同じように、非力かもしれないが誠心誠意全力を振り絞る、との決意です。その決意さえして望めばよいことではないでしょうか。もちろん、これは国のシステムも関係する問題ですが、国がどうあれ、そうした決意は患者に以心伝心で伝わるものではないでしょうか。「この先生なら、失敗も許す。それがこの先生の成長につながるなら、本望」という医者が求められているはずです。いずれにせよ、患者は命をあずけるのですから。 |
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海詩がその中に、自分の主治医を見出した |
海詩に案内させて両親のもとにやってきました |