原発推進派であるがゆえの数値
 

 あるいは原発推進派ご機嫌取りの数値。 もちろん、この言葉は、私の想定能力を超えていましたという意味で「想定外」と口走ったことが考えられます。もしそうなら反省の言葉が望まれます。科学者が、この主語を抜き、反省の色や責任の所在を明らかにする説明を欠いた以上は、作為的な言葉の使い方と見て良いのではないでしょうか。それを裏付けるような証言が、TV番組や記事で散見されます。

 現実問題として、工事費を何兆円か下げるために、その工事自体を無駄にしただけでなく、20兆円ともいわれ始めた損害額だけでなく、万の単位の取り返しようがない命を犠牲にさせたことになってしまいました。これに加えて、潮をかぶった原発の処分に、膨大な経費と時間を要することになるでしょう。

 もっとも、これをもって曖昧にされていた原発の処分に要するコストが、日本でも明らかにされ、世界の原発離れにも結びつくとすれば、一定の評価に値するように思われます。

 手前味噌になりますが、人的被害を出す前に原発を処分した事例が世界にはあり、拙著『次の生き方』(平凡社2004)で取り上げています。それは、アメリカ・カリフォルニア州の州都・サクラメント市でのことです。

 この州都では、電力という不可欠のエネルギーを強大な企業などの手に握らせてはいけないと市民が考え、市民の電力会社を作り、原発も導入していたのです。それが、減価償却出来ていない原発の処分に踏み切らせた、と私は見ています。

 いずれにせよ、自然界に存在する放射線以上の放射線を発する場合は、あらゆる生き物に対する影響力を見極めることが大切ではないでしょうか。生態系は、人間にとっても穏やかに生き続ける基盤ですから、最大の配慮が求められます。

 要は、国と電力会社が手を携えて原発計画を進めてきたこと自体に問題があった、と思います。そのいずれかが前責任のもとに推進すべき案件であった、と見てよいのではないでしょうか。このたびの責任の所在を、またぞろ曖昧にしてほしくないものです。