五山の送り火に関する醜態
 

 3・11で1,546人の犠牲者を出した陸前高田市。陸前高田市の景勝地「高田松原」で被災したマツ。被災した人たちの願いが込められた333本のそのマツの薪。それは、大文字の送り火で焚くことになっていた。

 その経過を、朝日は次のように要約しています。私には要約できませんが、京都人としてとても情けない。そもそも、なぜこのような企画を実行に移そうとしたのか。移すなら、どのような覚悟をしていたのか。

 それはともかくとしても、なぜこのような非情な結論に至ったのか。その結論を京都新聞は次のように報じました。

 京都には真の学者が大勢います。なぜ真の学者を煙たがらずに意見を求め、リスクを張ろうとしなかったのか。真の学者とは、時の権力、金力、流行、あるいは人気などに左右されず、わが身の安泰への配慮すらせずに、信じるところを主張し、そのリスクを覚悟で発言できる学者ではないでしょうか。

 その1人として、京都新聞が意見を求めた学者の1人を、先にあげた内海博司京大名誉教授を、朝日新聞も意見を求めていました。このぶれない意見こそ、陸前高田市の人たちはもとより、3・11の被災者だけでなく、ココロある海外の人達まで含めて、共感の環を創出し、広げさせ、京都にたいする敬意の醸造に寄与させるのではないでしょうか。

 いわゆる安全牌を引いたような当たりさわりのない意見しか言えない立場や能力とか、その意見に翻弄されかねない立場や心境にたいして同情の念を禁じえませんが、歴史や学識も誇る京都の住人としては残念でなりません。

 この醜態が顕になるに連れて思い出した一文があります。その昔、恩人の一人が教えてくれた「一尺の水を海に注ぎて増えぬというは偽りなり。増えたというは愚かなり」です。