わが意を得たり
 


 手前味噌ですが、バブルが世の中で取りざたされ始めていた1986年の末に私は脱サラし、「ポスト消費社会の旗手たち」との副題をつけた処女作『ビブギオールカラー』を1年半がかりで上梓しました。その当時のことを思いだしたわけです。

 商社に勤めていた私が、ファッションビジネスに手を出すことを提唱したのは1966年のことです。同時に、30年50年先の人々の生活を見据え始めています。その癖が身についていましたから、仕事場を1979年に中堅アパレの社長室長に変えた後も、長期展望を大切にしていました。そして、バブル現象に直面した1985年頃から、バブルに酔う危険性を社長に進言し始めています。

 それは、商社時代の1973年から訴えていた内容です。工業社会は早晩破綻するから、次の社会に備えるべし、との提唱です。つまり、工業社会から移行すべき次の社会の姿を見定め、移行の必要性を叫んだわけです。しかし、結果は散々でした。やがて日本中が、高名な経済学者までが、こぞってバブルをはやすようになってしまったのです。

 当然私は、わけの分からにことを言う人、不満が溜まっているらしい、大言壮語する、あるいはホラ吹きだ、などと評価され、そうした評価の言葉が独り歩きするようになり、肝心の語った内容が伝わらなかったのです。

 そのようなわけで、語った内容を文字に書きとめるために、脱サラしました。それは日本に、同じ失敗を繰り返してもらいたくなかったからです。農業時代の末期、欧米が植民地政策から脚を洗い始めていた頃に、日本は植民地政策をひっさげて大陸に進出し、ババを引いたような結果に終わっています。その二の舞を避けたかったのです。

 その想いは1988年の初夏に一著となりましたが、その一著で訴えた想いを思い出し、「わが意を得たり」との気分にさせてもらった次第です。