トルコの農業
 


 アンズやイチジクなどの果樹園は広々としています。麦やトウモロコシの畑に至っては見渡すかぎり延々と、と言ってよいほどです。そこで生産された作物は、イスタンブールにあるエジプシャンバザールなどで手にとり、味わえます。

 そこで気付かされたことは、彼我の農法の大きな違いです。もちろんトルコでも果樹の剪定をしているそうですが、剪定していないように見える剪定です。つまり、わが国の剪定の目的が見かけに特化した粒選りの収穫にあるとすれば、トルコは本来の美味しさと収量の多さに特化した剪定といってよさそうです。市場などで見る果物の見かけは大小まちまちで、私たち人間と同様に個性的です。

 この差異は、人間観にも現れているように思いました。トルコでは、純粋のトルコ人はいない、というのが国民の合意です。つまり、民族の「十字路」であったことを自認し、誇りにさえしているようで、国民は人種や姿形の多様性を楽しんでいます。

 日本もトルコと同様に純粋の日本人はいません。あえていえば、近年国会でもアイヌを先住民族と認めたわけですから、アイヌ人を純粋の日本人と見ざるをえないでしょう。でも、ロシアではアイヌ(と酷似の関係にあ)民族をロシアの少数民族の1つに数えています。要するに、日本は多民族の「吹き溜まり」のような立地なので、単一民族だと誤解したくなる文化を育てたのかもしれません。

 それはともかく、長年にわたってアイヌの人たちに対して、なぜか侮辱的な意識を抱いてきたこと私を恥じています。少なくとも先住民族に対する敬意を払ってはいませんでした。強いて言えば、こうした認識や意識に転換するだけの自身や度量が求められそうに思います。同様に、やがて農作物を工業製品のように見ている今日の意識を恥じなければならなくなると感じています。またたくまに己と同化してしまう農産物に対して、大きく意識を変えなければならない時がやってくる、と睨んでいます。