懐かしい思い出
 


 初めて私が海外に出張したのは、軍平さんが駐在していたアメリカでした。期待で胸をふくらませながら飛行機の人となり、JFケネディ空港に近づいたときのことです。脂汗が出るは尻がモゾモゾし始めるは、それは大変なことになりました。「軍平さんが迎えに来てくれていなかったら、どうしよう」と、不安に襲われてしまったのです。それもそのはず、軍平さんに「〇〇便で着く」とのテレックスを打っただけで、返事をもらっていなかったからです。

 なぜそのようなうかつなことをしたのか、と今も時々振り返ります。それはともかく、さまざまなことを、とりわけ身の処し方を、平たく言えば覚悟の仕方を骨身に染み込ませる出張でした。

 軍平さんの大きな車で案内された先は、NY郊外にあった平屋のアパートでした。仲間である友人と二人で借りて住んでいました。翌日は日曜日。その二人はゴルフに出かけ、私は留守番をすることになったのですが、着替えがありません。着たきりスズメの背広と、ワイシャツや肌着などの着替えしか持っていなかったのです。当時のサラリーマンは、勤め着のほかは、ゴルフウエアーとパジャマしか持っていないといった有様で、ゴルフをしない私は着たきりスズメであったわけです。

 私は、軍平さんのユカタと下駄を借りて、終日近隣を散歩しています。その姿が良かったようで、大勢の人が呼び止めてくれましたし、子どもが群がって来ました。そのおかげでしょうか、外国人アレルギーに襲われることなく海外を駆け巡る人生を歩み始められたように思っています。

 実は、この出張では重い課題を背負わされていました。当時、繊維立国であったわが国ですが、衰退期に入っており、勤めていた伊藤忠商事にとっては大ピンチでした。そのピンチを抜け出す提案を出張報告としてまとめることを部門長から期待されていたのです。あとで知ったことですが、その提案が分掌役員に認められなければ、部門長であった青木憲三室長は辞めていたようです。

 多くのことを学んだ出張でした。まず覚悟の大切さ。身の引き方の大切さ。方向を見定める大切さ。兆しを読む大切さ。それよりも何よりも、人を信じる大切さです。

 報告書は、分掌役員の藤田藤(かつら)副社長に即断即決で採用されました。それが、本年3月に伊藤忠が繊維部門から社長を輩出させた主因だと思います。

 28歳であった私の提案を、つまり既成概念のない若造の思いつきを聴き逃さず、いかに演出すれば実らせられるか、を考えたのが青木憲三室長でしょう。海外出張報告書としてまとめさせ、直接分掌役員に報告させたたわけです。若造ゆえにものおじしない、との読みだったようです。

 提案内容は、取扱商品を原料から製品へ、日本を生産基地から消費地へ、主要取引先を紡績や合繊メーカーからアパレルや小売店へ、などの転換です。その転換にはソフトウエアーが不可欠ということで、伊藤忠ファッションシステムという子会社が誕生しています。

 この転換の現実化に関わった多くの人が次々と亡き人になっていますが、軍平さんまで亡き人になりました。軍平さんの浴衣をアメリカで着たことにより多くのことを気付かされました。いわば、アメリカのユカタに相当する衣服を中心にして、日本で製品化したようなことになっています。

 その時に着たユカタと下駄は、軍平さんの婚約者が日本から送った代物でしたが、その送り主が喪主をつとめる通夜や葬儀に駆けつけられなかったわけです。