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3度目の鹿大 11/12/11
 
 日本は「よい国だなあ」と思いました。鹿児島ではここかしこでまだブーゲンビリアの花が咲いていたのです。桜島の噴煙にも見とれました。その噴火回数は、ここ3年続きの記録更新とか。「大正の大噴火」、溶岩流を思い出す人が増えていました。

 1年ぶりの鹿児島大学では、4つの講義をさせてもらいました。好感の持てる若者が大勢いましたが、残念ながら、鹿児島でも「工業社会の破綻」を予知する若者は少数派のようです。その多くは「未来は今日の延長線上にあり」、景気はいずれ回復する、と見ているようでした。要は、若者の感受性がなせる技のごとく、大変動の時代を察知し、つまり臨機応変に身を振ることができる「若者の時代」が近づいていると期待して、胸をふくらませ口角泡にして希望を叫ぶ若者の姿が、私の目にはとまらなかったのです。

 講義はいずれも午後でしたが、午前中だけでなく講義の後の時間も生かし、タップリと楽しい思いをしてきました。その1つは、昨年の帰り際に知った西郷さん関連の史跡を訪ねることでした。その人となりを肌で感じられるに違いない、と期待していた史跡です。次いで温泉、さらにもう1つ、それは美味と美酒です。いずれも期待通りでした。

 西郷さん関連の史跡とは、西南戦争の役で出陣したあとの家族のために、西郷さんが用意した住処です。「征韓論に敗れ」て薩摩に引き上げた明治6年から、出陣する同10年までの間に整えた住処でしょう。ガイドを頼んだ南国タクシーの運転手前田さんによれば、訪れる人が滅多にいないとの史跡ですが、訪れてよかったと思いました。「敬天愛人」との書を残した西郷さんですが、その心境をしみじみと感じました。

 この史跡を訪れる前に、実はある人にある疑問をぶつけていました。「和韓論」を唱えた西郷さんが、「征韓論」者一派に破れたわけですが、歴史ではどうして「征韓論に敗れた西郷さん」と言い習わしてきたのか。また、南西(方面の)戦争ではなく西南戦争なのか。「誰がどうして」そう言い習わせるにまかせたのか、そこに陰謀を感じるのです。案の定、同じような疑問を感じる人がいたようで、指宿(いぶすき)市で開催された先年の日韓会談の席で、「遣韓論に敗れ」たに改めるべし、との声が出ていたようです。

 温泉は、鹿児島に出かけるようになってから3年目にして初めて浸かりました。二箇所を訪れ、ともに気に入りました。同時に、鹿児島市内に数ある銭湯はすべて温泉だと知るところとなり、あと幾つかは是非とも浸かりたい、と思うに至っています。

 美酒は、匂いが強い芋焼酎の湯割でした。美味は海鮮丼、しらす丼、そして黒豚のつけ麺です。かくして木曜日に最後の講義を終え、一旦帰宅。翌早朝から、今度は1泊2日の関東出張でした。研修会の後で忘年会があり、それにも加えてもらえたおかげで、とても楽しかった。しかも、温泉の朝風呂まで楽しめたのです。

 わが家の一帯は一段と冷え込み、居間の室温が10度になっていました。楓の葉はまだ残っており、9日の夜から始まった花灯籠が華やいでいました。かく1週間が終わり、庭仕事には就けませんでした。代わって妻が、ツタンカーメンのエンドウ豆の苗を植えつけてくれていましたし、イノシシの被害にも遭わずに済ませてくれていました。

 この旅の出発前に、日本人一人あたりのGDPが、シンガポールにも追い抜かれた、とのニュースを耳にしましたが、このままでは日本はジリ貧状態になるでしょう。私たちはこれまでの美意識や価値観を卒業し、次の一歩を踏み出すことが求められています。
 

桜島が噴煙をあげていました。大学のキャンパスから、あるいは高台にあった温泉の窓からなど、と眺めることが出来ました。日に幾度も、平均すると日に2.5回ほど噴煙をあげてきた計算です。そうとうのマグマが溜まっているそうですから、そのうちにドーンと大量のマグマを吹き出すことでしょう。

鹿大には幾つかの学食があるようですが、初めてその1つを訪れ、温かい麺類を味あわせてもらいました。ポカポカした日であれば、出来合いの弁当を買って屋外で食べてみたいものだ、と思いながら、食独特の賑わいをあとにしました。

2ヶ所の温泉を訪ねました。初日の講義のあとは、鹿大の近くにある銭湯でしたが、ラドン(放射能)もうたい文句の成分でした。どうしてこれまでの2年間に試みなかったのか、と反省です。翌日は、午前中を西郷さんの遺跡めぐりに割き、夕刻は学生も交えた飲み会でした。そこで、最終日には朝風呂を、と小高い住宅街にある銭湯に案内してもらいました。

西郷さんが、「己亡き後の家族のために用意した住処」は森閑とした地にありました。東南の方向にある小高い山の斜面でしたが、西郷さんが植えたというヤマモモは大木となり、株立ちの竹も残っていました。樹木が茂っていなかった当時は、日当たりがよく、農作物が良く育ち、ひっそりと住まう3組の母子と親友の11人をうるおしたことでしょう。

初めて味わった「しらす丼」は、朝風呂のあとの早昼でした。この旅行では食事の量には十分気を配ったのですが、連日になった飲酒のコントロールには失敗し、体重を増やしてしまいました。次週末までに戻し、そのノウハウを、友人(私の助言で半断食を経験したアイトワ塾の網田さんも、きっと節酒に失敗することでしょうから)にも伝授したく思っています。

西から東へと旅の方向を切り替える際に一旦帰宅してみると、このようなシイタケをいただいていました。太い軸を見てビックリ、ソテーにして味わってみて2度ビックリ、「敬天愛人」をイメージしました。しかし、妻にはこのイメージを話していません。その程度の解釈しかできない人か、とビックリではなく、ガッカリさせたくなかったからです。

9日の夜から始まった花灯籠は今回で5年目ほど、と記憶していますが、紅葉が残っていた花灯籠は初めてです。10日土曜日の夜も、アイトワのもみじのトンネルは賑わっていました。右奥に並んで見える明かりは小倉池にそっている花灯籠です。