けじめ
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もちろんもらった薬は服用しています。しかし、服用する必要性を自覚できていません。第一、半断食の後で、担当医は
(それまでは次第に増量していた血液をサラサラにする薬)
ワーファリンが過剰作用していることが知り、急遽補正する点滴をうけさせています。その後、今日までワーファリンを断ったままです。これはきっと半断食での「正食」療法が関係していることでしょう。 もちろん担当医は「私のカラダ」を心配してくれています。私にとっても「私のカラダ」は大切です。しかしそれ以上に、私は「ワタシ」を大切にしています。以前にも触れましたが、「私のカラダ」は「ワタシ」の持ちモノ、ワタシの乗り物に過ぎない、との考え方をしています。その考え方からすると、担当医には大いなる疑問を残ります。 そこで、投薬の是非について希望を述べ、「私のカラダ」は「ワタシ」の責任で管理したい。もちろん不具合が生じたら、ここに駆けつけて、「ほら見たことか」と言われかねないことになりかねない、との覚悟もしています。ということで、次回の検診(2ヶ月後)を1つのけじめにするようにお願いをした次第です。 余談ですが、かつてワタシは、血圧の上の正常値の範囲は「90+年齢」までときいていました。もちろんこれもいい加減な数値で、個人差の大きい問題だと思います。ところが今では140以上だと降圧剤を飲ませようとする。もちろん140でも、ある人には降圧剤を飲ませたほうがよい場合もあるでしょう。だからといって、一様に勧めるのはどんなものか。それは誰のためか。誰の何のためか。 私は医者を、聖職とまではゆかないまでも、それに近い存在にして、誰しもが安らかな死を迎えやすい世の中にしたい。近年はその逆のような方向に進んでおり、残念でならないのです。この点を、医者にも自覚してもらいたいのです。忙しそうな医者が気の毒でならない。国が定めたシステムと、それで納得している民度に不安を抱いています。 少なくとも私は、「私のカラダ」は生きているのに、「ワタシ」は意識さえなくし、死んだも同然といった状態になり、「私の意思」とは関係なしに「私のカラダ」をいじくられたくないのです。 余談ですが、通院から後のことです。最寄りの薬局に薬を求めに行った時のことです。「今回は分包の指示がありませんでしたので」とのことで、指示のあった薬だけが袋に入っていました。そこで私は、写真のような工夫をしました。 左側は分包された(飲み忘れていた)薬、右上は今回買い求めた薬の状態、箱は私が試みた飲み忘れをしない工夫。これまでは分包された薬に日付を付けて飲み忘れをなくそうとしていましたが、どうしても週に幾度かは忘れがちでした。このたびの面倒な私の工夫によって、飲み忘れが減るかどうか興味津々です。 それはさておき、担当医と相談した時のことです。担当医が「薬を買い求めるお金の問題なら話は別ですが」との発言がありました。私はノーコメントで過ごしました。その際の対話には、分包には一切触れていません。 |