こんな人
 

 まず、風除室にケンを連れ戻している妻の姿を見たときのことです。私はケンのために、介護具を作る計画を立て始めていましたが、妻はまったく異なる工夫を、妻なりにこうじていたのです。

 ケンは、風除室と元の住処との間を移動させるだけで、とりわけ帰路で、日に日に苦労を伴うようになっています。このままではカラダだけでなく、ケンのココロまでダメにしてしまいそうだ、と思いました。つまり、この移動と散歩以外では、これまで通りにケンはズーッと寝たきりです。放っておけば前足まで弱わらせてしまい、「寝たきり老犬」にさせかねません。そこで、好きなように散歩ができるように、と考えたわけです。

 それは、このところ使わなくなっていた旅行具を、旅行用の(トランクを載せて歩く)キャリアー(?)を探し出し、いわば犬用の車椅子に改造するプランでした。後ろ脚ごとお尻を載せて、前足だけで好きな様に散歩できるようにしてはどうか、と考えたわけです。きっと旺盛な好奇心がよみがえり、ココロが晴れるに違いない、と思ったわけです。

 ところが妻は、それでは後ろ脚の退化を決定的に進めてしまいそうだ、と心配したようです。そこで考えだしたのがこの補助具です。前足の動きに連動して、文字道りの曲がなりに、ケンは後ろ足を曲がりなりに運び続けていました。

 とはいえ、私が考えたキャリアー方式と違い、時間と力が余分にかかるだけでなく、終始気を抜くことができず、こちらが疲れはてかねません。「いつまで続ける気だろう」「どこで打ち切り、次善策に切り替えるのだろう」あるいは「(妻は腰が弱く、その母親は背が大きく曲っていましたので)大丈夫かいな」と心配です。

 次はテレビ番組を視ていた時のことです。火山灰地の土壌改造に成功した南鹿児島の茶畑をとり上げていました。無農薬有機栽培の茶の木には、さまざまな昆虫が棲み着いていました。蛾を捕食するカマキリ、まるでハチドリのように静止飛行状態で茶の花の蜜を吸う蛾、あるいはアブラムシを食べるテントウムシなどが次々と登場しました。その場面ごとで、妻は箸をとめ、画面に見入り、それぞれの感想を漏らしました。

 カマキリの場面では、茶葉の刈り取り機に「巻き込まれますよ」とのす独り言。蛾の捕食に夢中になっているように見たカマキリに注意を促しました。

 ハチドリのような蛾は、わが家にも棲み着いているようで、晩夏によく見かけます。その名称が「オオスカシバ」だと紹介されたときは、妻はメモしていました。

 テントウムシが、茶葉を食い荒らし、台無しにしてしまうアブラムシを捕食したときに、ナレーターは「アブラムシを退治しました」と語りましたが、妻は「(アブラムシを)食べました、ですヨ」と訂正しました。

 こうした感想に、もちろん私は全面的に賛同です。とはいえ、それは、弱いものから順に痛めつけていたら、いずれは自分にその番が回ってくる、と考えてのことです。いわば因果です。あるいは、目先のことにとらわれていたら、肝心のことを見失いかねないとの心配、つまり目的と手段の峻別、といっていいのでしょうか。

 3度目は、ホームごたつのテーブルに私が載せた「テラリウム(?)」の、小さな熱帯植物が目を止めときに、妻はサボテンが「うたを歌っている」と表現しました。私には、しばらく置きっぱなしにしていたので、陽光を求めて成長した結果としか見えていませんでした。しかし、この妻の発言に触れ、妻の個別性ではなく、性差を感じ初めています。
 

妻はまったく異なる工夫

「テラリウム(?)」

サボテンが「うたを歌っている」