穏やかに話し合えたわけは4つ
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その第1は、度々触れてきたように、経費と時間がかかる治療に専念せざるを得ない日本の医者は気の毒、と思っていることです。本来はその能力や技術を予防に、つまり病人をつくらないために傾けるシステムに転換し、浮いた経費や時間を医者が楽になるように生かすべきだ、と思っています。 当日は、こうした思いを持っている私の目の前で、この思いを倍加させることが生じました。各種検査を終えて診療部門にたどり着くと、担当医の診療スケジュールは半時間も遅れており、トレンチコート姿のサラリーマン風男性がいらいらしていました。私が診療室手前の椅子に案内されたときは45分遅れになっていました。その診療室の内と、外の私の目の前で、2つの小さなドラマが演じられたのです。 室内からは、担当医と患者の付添人が交わす会話がもれてきました。担当医がくどくどした質問攻めにあっていたのです。あとで分かったことですが、それは車椅子の老齢の婦人に付き添った中年女性でした。おそらく、帰宅してから、彼女は、聴き漏らしたことがあったら、老婦人からさまざまな不満や不安を訴えられ、時には愚痴を聞かされかねないのでしょう。待ちに待たされてやっと回ってきた自分たちの番でもあるわけですから、心残りがないように質問をしておきたかったのでしょう。 診療室外では、別のドラマが生じました。トレンチコートの男性が踏み込んできて、取次の白衣の女性に「あとどれぐらい待たされるのか」との質問です。彼は会議の間をぬって駆けつけていたようです。一旦帰社し、次の隙間を作って再来するから予約時間を変えさせてほしい、との要請でした。風貌から、やり手の男性であろうと見ましたし、収入も多く、多くの健康保険金を負担しているに違いない、と思いました。 やっと私の番が回って来たわけですが、詫びる医者に同情の念を示す他に余念はいっさいありませんでした。そして、予告した通りに「先生には一切ご迷惑をかけませんから」と念を押し、結論を出し、次の医者あての所見をもらいたい、とお願いしました。 次の医者として最寄りの町医者を期待していました。今は亡き父が、意識を失ってから、その呼びかけに応じてパッチリと目を開け、最期に見たのがこの医者の顔です。母にいたっては、この医者に往診してもらい、注射を1本打ってもらうだけで元気になっていました。このたびの件では、この医者に紹介された病院に、私は入院して一命を取り留めています。もしあの緊急事態が、日曜日の夜に起こっていたら、私は死んでいた可能性があります。きっと翌朝が月曜なら、朝を待ってこの医者を訪ねようとしたことでしょう。そして朝までに肺を水で満杯にしてしまい、溺れたような死に方をしていたかもしれません。 私は「朝まで耐えるのがやっと」と自己診断し、慌てている妻に電話を入れさせ、この医者に病院の紹介を依頼させました。そして、夜分でしたから救急車を呼ぶのではなく、妻が運転してくれるなら病院に行く、と駄々をこねました。 原因はこの医者の誤診でした。退院するときに、この医者宛てに病院の所見をしたためてもらい、翌日持参しました。この医者は「診そこねてたなあ。肺炎のことばかり気にしてた」と発言しました。私はこの発言で、この医者を余計に信頼しました。この医者の役にも立てた自分が嬉しかった。そして、出来れば父のように「この医者に看取られて死にたいなあ」と思うようになっています。 ところが、この医者が脳梗塞で倒れ、意識不明になっていたのです。妻は、見舞いに行くと言う私を止めました。「お元気な姿」を記憶にとどめておくべきだ、との意見です。「さあ困った」。このあと誰に相談したらよいのか、となったわけです。こんなことを、いわば見限老としている病院の医者に、相談するわけにはゆきません。 正確に言えば、私が見限ったのはこの医者ではなく、「病院」でもなく、今の「院長」といったほうが適切でしょう。なぜなら、この病院は、改善に務めるための声を患者に求めているにもかかわらず、適切に対応しようとする姿勢や態度が欠けているからです。もちろん、看護婦の態度が悪いとか、食事の時間がずれるなどといった声には即応しており、そうした面では申し分ありません。しかし、病院自体のあり方についての声には、鈍感なのです。ひょっとしたら、院長に関わる提言は上がらない組織かもしれません。 私は、医者と患者の関係は、信頼関係が第一だと思っています。情緒的な比喩ですが、よき夫婦のような関係であって欲しい、と思っています。つまり、いかに充実した人生にしあおうと誠実に努力するか、その過程が大切であって、結果は良ければなおよし、の次元にすべきだと思っています。 なにはともあれ、長生きではなく、活き活と生き、尊厳死を迎えたく思っています。 |