希望
|
山を、あるいは自然を怖がらせるのなら、どうして遠足に連れ出すのでしょうか。大事な子どもを遠足に連れ出すなら、どうして下見をしておかないのでしょうか。山への遠足は、自然の正しい理解や、生理的な欲求をうまくコントロールする練習の場歳低下スべきではないでしょうか。 それはともかく、閉塞感に打ちのめされている昨今です。何としても子どもたちには、いつでも勇気を奮い立たせられるような性格に育てるようにしてあげたいものです。それは、いかなる時代になろうとも恐れずに立ち向かう心と知恵を授けておくことではないでしょうか。すくなくとも欧米では、この点に気づいた教育に留意する傾向が多々見受けられます。そもそも、ボーイスカウトの誕生が、これをキッカケにしています。 実は私は「ねえや」つきで育てられましたが、父の発病と戦争で、突然5歳の時に山のような環境に連れて来られ、母にもかまってもらえずにうろうろする境遇になりました。しかしそれが、母離れのキッカケ識(2・34)や、理不尽には屈しなくとも生きて行ける(17・19)との精神を授けてくれたように思っています。 先生が途方に暮れた場所の手前10分のところと、20分離れた先に公衆便所があります。そのいずれかで用をたすように指導してあったのでしょうか。あるいは、その指導に従う必要性を「その瞬間にならないと」尿意に気づけない子どもの指導をするために、絶好の機会とするべきではなかったでしょうか。 もしできれば「大きくなった欲しい樹に、オシッコをあげて」とか、「むやみに踏み込んではダメよ。アリさんが遊んでいるかもしれないから」との助などをしてほしかった。それなら私は、野山に遠足に連れ出す意義を認めます。 わが文部省は、この子どもたちが大人となり、老いて死ぬまで、今のような世の中が続いていると思っているのでしょうか。時代が変われば、「愛のあり方(62)」も変わります。 |