この村の時間の流れ
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大見に出かける際に、歩みながら庭で金環日食を楽しみました。といっても、木漏れ日の金環日食です。 この集落は左京区ありますが、標高600mほどで、気候は滋賀県北部と同じとか。霜が降りるのが早く、ユズやカキなどが育たない地域です。八重桜が末期でしたが咲いていました。クリンソウが満開、マムシグサが花をもたげていました。秋になれば、野生化したスモモや、自生の小さなナシが楽しめます。 この集落は平家の落人集落であったようだ、とかつて触れました。最も栄えていたのは江戸末から明治の初め頃と言われ、当時の人口は340人ほど。炭と木材を現金収入源として、絹のお召など細モノや塩などは買い求め、他はほぼ自給自足生活をしていた。 昭和36年頃は、17軒134人が住まい、一帯には15町ほどの水田がひろがっており、農林1号と黎明を育てていた。水は山水を堰き止めて貯水場をつくり、川沿いに水路を穿ち、生活用水や水車の動力にしていた。夏はその貯水場が子どものプール。 そのころも、炭と木材を現金収入源としており、その集散問屋(?)などは大変な羽振りであったようです。昭和30年頃に、子どもがカクレンボウをしていて見かけたそうですが、その長持ちの底には小判が敷いてあった、とか。 それはともかく、昭和36年頃の17軒の村には小中合同の復々式分校(小は1〜3と4〜6、そして中は1〜3で合同授業)があり、生徒数は45人(内7人は7軒の隣村から通っていた)、「あれが職員室」などと説明を受けました。先生は九州出身の百武先生、そして水尾の竹花センセイ。「人見という先生もいたなあ」。 百武先生は音楽が得手で、楽器を自ら集めてきて生徒にブラスバンド隊を編成させたり、分校歌を作詞作曲したりした。運動会では、分校がブラスバンド隊で大行進。やんやの拍手を受け、分校の人たちは胸を張ったようです。 若狭と京都を結ぶ鯖街道はいくつかのルートがありますが、最初に開かれたルートはこの集落を通っていた。 今や、冬は誰1人として住まない村になっており、村を流れる川も洪水のたびに川筋が変わっているようです。その清流にはゴツゴツした石や岩がむき出しになっています。その中に、1つだけ人工物が混じっていました。明治初期の作と思われる染付のカケラでした。糸尻から推計すると、なんと一抱えもある大皿です。「こうした皿を用いた文化が大見にあったわけだ」としばしの思いを馳せました。 昼食はめいめい持参のお弁当。四国に荷物を送り出す関係で、妻が用意した弁当はやや即席でした。ここに、この村で農業を始めている藤井さんに「しし汁」を作って振る舞ってもらいました。なんとも美味。それもそのはず、藤井さんは板前で、左京区で「彦次郎」という割烹を経営しています。シシは藤井さんが仕留めたもの。不遜な言い方ですが、藤井さんの味付けはピカ1です。この人の造った「蕪蒸し」を食べて、初めて「美味しいものなんだ」と分かったような気分にされた記憶があります。 分校や周辺の散策で要した小1時間ほどの間に、藤井さんの息子は、小型のトラクターを用いたとはいえ、「じゃがいもを植えます」という一反余の畝を仕立てていました。 |
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木漏れ日の金環日食 |
木漏れ日の金環日食 |
木漏れ日の金環日食 |
自生の小さなナシ |
水は山水を堰き止めて貯水場をつくり |
川沿いに水路を穿ち |
「あれが職員室」などと説明を受けました |
「あれが職員室」などと説明を受けました |
最初に開かれたルートはこの集落を通っていた |
一抱えもある大皿 |
妻が用意した弁当はやや即席でした |
なんとも美味 |
一反余の畝を仕立てていました |
一反余の畝を仕立てていました |