商社時代の仲間
 

 「学校でてから50年」「想えば遠くに来たものだ」との替え歌から始まりました。「書いた伝票が5万枚」「抜いた鼻毛が5万本」との下りもありました。

 UAEの一国デュバイでの駐在期間が通算17年という男がいました。この男が西ドイツ・デュッセルドルフ駐在時代に、私は500km先の客先まで時速140kmで往復案内してもらったことがあります。時速140kmとは、雨の日のスピード制限速度。通常時のアウトバーン(高速道路)には最高制限時速はなく、逆に最低制時速度がありました。

 この男は、デュバイは「人類の夢を具現化した街」と紹介しました。そして848mの「ブルジェハリファ・デュバイ」にはハリウッだが来たが、634mのスカイツリーには来ない、とも付け加えました。もちろん私には異論があります。UAEの一国アブダビを訪れた時に知った現実に基づいた10数年来の異論ですが、この時は控えました。

 入社50周年記年の集まりでしたが、集った人数は最少。それでなくともこれまでに6人もの仲間が、しかもひときわ親しかった3人を含めて、故人になっています。でも賑わいました。各人が数分ずつ思い出を語る集いになっていたからです。

 今回の半年に一度の定点観測記念写真では、私の前に存命中のひときわ思い出深い2人が陣取っていました。その1人は、専務時代に病魔に倒れた男で、「社長になって欲しい」と密かに願っていた男です。その願いが私のライフワーク「1つの地球で済ませる私生活モデル」、つまり「人類が夢視るべき生き方の1例」づくりを活気付けています。

 この男は、香港が中国に返還されるときに駐在していましたが、その式典での思い出を披露しました。チャールス皇太子がスピーチを始めた時に疾風怒濤の大雨になり、雷鳴がとどろき始めたとか。1997年6月30日、深夜のことです。

 もちろん現中国大使の丹羽の話も出ました。大使としては不謹慎な発言をし、日本に呼び戻されていました。70歳で公職を去る、と言っていた男ですから、「辞めておき、商人の発言に留めておけばよかったのに」との想いが頭をよぎりました。

 もう1人の男は、後年、私がつくらせてもらった子会社の社長を努めています。この男の発言は、「結局は、のろけやな」と冷やかされており、この会は「37恐妻会にしたらどうだ」との発言を促させていました。

 心に残るスピーチは他にも沢山ありました。その第一は、現在では当たり前のようになっている炊飯業」の走りを構想し、現実化させた男でした。51年前に、父が私に進めていた就職先に入社しており、後年合併問題が起こり、仲間になった男です。