打つべき手
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妻がおっとりとした顔でたたずんでいました。しかし、1m四方の床の切り込み口を引き上げていました。この下に井戸があります。この床下60cmほどのところに井戸の口があいていますが、それを塞ぐ重い鉄板の蓋も床の上に持ち上げており、水中ポンプを設置し、その巻き取り式の排水パイプをテラスまで伸ばし、すでに水を汲み出し始めていたわけです。今から思えば、妻は記憶力を失った状態でこれだけのことをしていたわけですが、私は知るよしもありません。 排水パイプの「よじれを直しなさい」と私は指示しました。よじれて排水能力を落としていたのです。妻によじれを直している間に、私はザイルと鉄パイプを用いて、水中ポンプが井戸の底に落ちないように細工しています。その間も水位は刻々と上がっていました。そこで妻に、バケツを持ってくるように言いつけましたが、その時に「少しおかしい」と気づくべきでした。ステンレス製の重たいバケツを1つだけ持ってきたのですから。そのバケツで妻に水をかい出させながら、私はブリキのバケツを2つとりに走っています。私はこうした緊急時には、押し問答をしないことにしており、しかるべき対応をして見せておき、後刻注意を促すように努めています。 2人でバケツリレーを始めながら、あとは単純作業の繰り返しだと気づきました。すっかり日が明けていました。そこで妻に、警報ベルのスイッチを独力で切るか、中尾電器店に電話して切ってもらうように言いつけました。ところが、10分ほどして戻ってきましたが、ベルは鳴りつづけたままです。そこで、なぜ指示に従わなかったのかを質しますと、「そんなこと聞いていない」と言ったり、「今まで何をしていたのか」と問いますと、たいした音ではない、と口答えしたりしたのです。「ご近所迷惑だろう」と言い残し、私は居宅まで急ぎ、電話をかけています。もちろん、足取りにぶかったと思います。 戻ってくると、水位は上がり続けており、ついに床を超え始めました。雨は小降りになりません。結局、床上2〜3cmほどの浸水を許してしまったのです。そこで、妻に、濡れては困るものをテーブルなどの上にあげさせましたが、この時にも妻の異常に気づいていません。妻はプラスチック製の収納ケースを机の上にあげたのに、それは錯乱のせいだろうと思っており、慌てさせないように叱ってはいません。 2人でのバケツリレーに必死になって取り組みました。その過程でも、いつもの機転が利かない妻だと感じていますが、妻も必死の様子でした。やがて雨が小ぶりになり、これ以上の床上浸水を許さずにすむと判断した時に、妻に新たな指示を出し、私は1人でかい出し続けています。その指示とは、床の上に溜まっている水を拭い取る道具を見つけてくることです。妻はたちどころに白いプラスチックのボードを取り出してきました。 「何か飲み物がほしい」と妻に頼み、そのボードを床にはわせるようにして水をかき集めては床より水位が下がった井戸口に落とし続けました。やがて井戸の水位がグングン下がり始めました。ふと見ると、テラスの水も引いていました。妻が戻ってくるのがやけに遅いと思ったら、なんとガラスコップに水を入れてお盆に乗せていました。 残る問題は、床を超えた水が随所に残っていたことです。板の間には二本のタンスなどの家具もあれば、さまざまな荷物が置いたままになっていました。その対策に移りました。そして、あとは雑巾で拭き取る段階になったと見てとり、妻に雑巾を取ってくるように言いつけました。20分程かかりながら妻は手ぶらで帰ってきて、「そんなこと言われましたか」とキョトンとしています。私は初めて怒鳴りました。それでも持ってきたのは1枚でした。そして、「喫茶室も水浸し」と言いました。 |