希望にあふれた報告
 

 東日本大震災後、売上はガタ落ちになった。しかも、このような事態を予測もせずに、サラリーマンだった息子を呼び戻し、一緒に仕事をさせています、との報告から始まりました。もちろん私はその相談にも載っています。

 しかし、顔はにこやかで、「やっと希望の光が射した」とつながりました。それまでは百貨店に販路を広げたり、生協に卸したりと、販路拡大に努めていたのですが、その問題点に気付かされ、キモにめいじたのではないでしょうか。つまり、他人依存ではなく、まずは独力で売りさばく力が大切、とその意義に気付かされた、というわけです。

 「息子が前に出て、お客さんと接しています」「私は裏方に回りました」「やっと、(製造工程から)捨てるものがすべてなくなりました」「これが新商品です」などと報告が続きました。出汁を取るために用いた梅酒の梅や、カツオブシもすべて製品化したわけです。

 この人は、小学生の頃に、1人で生きてゆく知恵や技量を身に着けています。豊かな海や山に恵まれ、家庭環境が窮状であったおかげです。食べ物も燃料も自分で手に入れ、妹の世話をし、夕食の用意をして働きに出ていた母の帰りを待っています。しかし、その海が一家を苛んでいます。水俣病です。父は病床でした。

 やがて「金の卵」として都会に出て、工場食を食べるようになります。その工場食の代金を自分で活かせば、もっと美味しい弁当をつくれる、と気づいて実践に移しています。この話に私は心を惹かれ、付き合うようになりました。四半世紀以上も前のことですが、その時はすでに、結婚した相手の家業を継ぎ、その業態を広げていました。衰退傾向にあったコメ屋から、佃煮屋への拡大です。

 「やっとこれで、息子に明るい未来を語れるようになりました」「これまでも分かっていたのですが、このたびの窮状で、進むべき方向が明確になりました」と、方向とそのプランを聞かせてもらいました。今は会社勤めで「わが家では一番の高収入です」という息子の嫁が、早晩合流しそうだと私は読みました。