棚経
 

 このたびの読経は、これまでとは異なる心境で耳を傾けたせいか、とても短く感じました。途中で、もったいない話ですが、ロンドンオリッピックの結果、とりわけ、イギリスのメダルのとり方、その金の数を振り返ったのです。ドーバー海峡は狭いのに、ヒトラーが攻め込めなかった訳がわかったような気分にされました。

 それは、座敷の縁側から覗く景色に、フト目が行ったせいかも知れません。この度も、この部屋でゆっくりと思索できる日が来てほしいな、と思いました。せめて本でも読みたいな、と思いました。そう思いながら、足腰が立つ間は、もっと楽しそうなことに惹かれ、庭に飛び出すなどしているのです。創造的な時間が、圧倒的に楽しいのです。何かを生み出そうとする思いを形にする行為が楽しいのです。

 世間では今、にわかに韓、中、あるいは露と、領土問題で険悪な状況になっています。それはどこに問題の根があるのか、とも考えています。

 近年の私は、かつては様々な国の植民地であった諸国を訪ねる機会が増えています。どうやら、国によって国民性も異なりますし、植民地政策も異なっていたようです。その是非は別にして、悪しき尾を引かせる政策、あるいは国民性は良くない、と思います。

 それは、自然破壊や資源枯渇など環境問題と同様で、未来世代に負担や負債などを引き継がせないようにすることが肝心、ではないでしょうか。その視点でいえば、私たちは、まだ国力がある間に、精算しておくべきことが多々あるように考えました。

 問題は、国民性ではなく、国の政策だ、と思いました。もちろん、国の政策次第でどうにでもなる国民性も問題だ。と思います。しかし、それを善導するのが政策でしょう。とりわけ、昨今の原発問題に関して、あまりにもデタラメな国の政策と、それに抗する穏やかのデモの継続性を知るに連れて、その思いは深まるばかりです。

 1960年台の後半、イギリスにも私は出張し始めました。食料自給率は今の日本程度でした。わが国の自給率はかなり高かった。ですから「イギリス病」に同情したものです。その後も、イギリスは次々と植民地を失っています。しかし、その自給率は今、7割になっています。ただし、料理のまずさでは定評があります。それは改善か改悪か。あるいは、国の政策か国民性か。国民は何を大切にしているのか。それは何が源泉か。

 それはともかく、日本選手の活躍、とりわけ団体戦の活躍が嬉しかった。仲間の結束に惹かれました。このような仲間に恵まれる幸せ、を感じました。

 かつて私は、「新しいコミュニティー」の姿をイメージしたくて、『「想い」を売る会社で』で触れました。その顕在化を実感した気分でした。手にしたメダルは銅であれ銀であれ、選手にとっては、よき仲間を得た喜びが金メダル、であったに違いありません。

 そのコミュニティー意識が、何を基盤にしていたのか。そしてその輪どこまで広がるのか。あれか、これか、と考えさせられました。きっと多くの若者の感受性は、新しいコミュニティーの「しかるべき姿」を捉えているに違いない、と期待しました。

 毎年、お盆のこの時期になると朝一番に、お経をあげてもらっています。この度は「7時43分から」と妻は断言しました。なんてことはない、『夢ちゃん』が始まる直前でした。その僧侶は、歩いても行ける本山寺の塔頭の(現住職の)息子です。

 「雨になったのは初めてですね」とその僧侶。考えてみれば、父が死んでから20年来、現住職の時から考えても「初めての雨ではなかったか」と思いました。同時に、この時期になると、妻は墓掃除に始まり、この棚経の時のママゴトのようなお善を用意したりする役割を担ってきたわけだ、と思いました。このたびも、野菜籠はすべて畑の作物で盛れました。果物籠には富美男さんが育てたマクワを添えました。今年は、スイカを割愛。大雨にたたられ、露地栽培産地のスイカは水臭そう、と見たのでしょう。

 要は、これから、文明と文化の峻別が大切になる。同時に、人間のあり方が問われる時代になる。そう強く感じさされた読経の時間でした。そして、ヒトラーまがいの政治家が現れたり、そんなヒトにたぶらかされたりする国民でありたくない、と思いました。
 

座敷の縁側から覗く景色

棚経の時のママゴトのようなお善

野菜籠はすべて畑の作物で盛れました