この苗にも励まされ
 

 大げさですが、私の庭づくりは使命感のようなものに励まされています。それは幼児期体験のおかげです。私は「食の面」で、幼児期から「日本が干上がらないように」と願うようになっています。やがて、世界をリードできる国にもなりうる、そして今日ではイニシアティブを握れる国になれる、と思うようになっています。

 幼児期体験とは、5歳で戦時中の都市から田舎に疎開し、そこで母が自然循環型の農業で一家を支え始めましたが、七変人と出会います。そして小学校1年生の夏に敗戦の日を迎えています。そこから世間では一段と食料不足が激しくなっていました。

 七変人と呼ばれていた人たちは、権力の所在や時代がいかように変わろうが、態度を一転させない人、つまりブレない人のことでした。敗戦では、時代が一転することを学びました。大きく言えば、日本は農業社会の国から工業社会の国へと一転したわけですが、それは後年になって分かったことです。子どもにも分かったことは、1945年8月15日を堺にして、社会の雰囲気が一転したことです。一学期末の日と二学期が始まった日で、先生の態度が一転です。「青菜に塩」のような先生をとてもみじめに思っています。

 こうしたことを通して、さまざまなことに気付かされました。その気付きが、やがて世界に雄飛しうる総合商社に勤めながら、社会人翌年に妙な決断をさせています。通勤には不便だし、電気や水道が引かれていない土地に、そこは母が農業をしていた跡地であり、荒れ果てていましたが、小さな家を建てています。そこが終の棲家になりました。それは18歳から再開墾を始めており、20歳から植樹を始めていたからです。

 ですから、私は幼児期の感受性をとても尊重しています。その感受性が七変人によって裏打ちされ、今の私にさせましたが、それは戦争のおかげだと思っています。

 亡き母は、口癖のように、妻に語ったそうです。もし父が不治と言われた病に倒れず、敗戦がなければ、「孝之はどうなっていたのかネエ」と。欲しがるモノを買い与えられ、好き嫌いが許される生き方をしていたのです。

 今の私は、封建時代にとても関心を抱いています。10歳年上の姉が「封建的!」と父に抵抗した場合のイメージと、真の封建時代のイメージが大きく異なっているように感じているからです。工業社会は「欲望を解放」しましたが、それを「人間の解放」と誤解していたように思われます。つまり、ヒトが持ち合わせている動物の部分を、ヒト特有の人間の部分を生かし、開放していただけではないでしょうか。グルメはその典型例でしょう。

 余談をはさみますが、このたびのオリンピックで、食事のまずさに定評があるイギリスが日本の4倍以上もの金メダルを取りましたが、その集中力をこの視点から眺めています。

 私は1988年の処女作を記しながら、封建時代の典型と言えそうな江戸時代にとても関心を示しています。それは、救われるような気分にされたからです。物質的には恵まれてはいませんでしたが、持続可能な社会を創出しており、人々の私生活は様々な個性を発揮する機運に満ち溢れていたようなのです。今の日本と逆さまです。

 要は、こうしたことが私の励みであり、その励みを、このたびの義妹の苗が活性させたのです。