「七変人」
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「どのような価値観の方々ですか」との質問がありました。間違いなく私は、七変人と呼ばれた人たちに色濃く影響を受けており、今ある私の価値観や美意識の根っこは、その人たちのおかげで定まったようだ、と思っています。とはいえ、その価値観を改まって問われ、途方に暮れました。 そのおかげで、「そうであったか」と気付かされたことがあります。それは、しばしば妻から「おかげで」ではなく「せいで」でしょう、と言葉遣いの訂正を迫られていますが、それは「七変人のおかげか、せいであった」ということです。 校閲者にどう手短に答えれば良いのでしょうか。もちろん、その点も含めて詳述した考文献を紹介しています。 5歳の夏に西宮から当地に疎開しましたが、七変人と呼ばれる人たちが住んでいました。当時の村は、常寂光寺や落柿舎も含めて16戸しかありませんでした。ですから、変人は村の大人の4~5人に1人の割であった計算です。しかし、その人たちは5人まで思い出せますが、他の大人は、両親を含めても4〜5人しか思い出せません。 疎開先の伯母も変人の1人でした。他の4人は、常寂光寺の寺男であった栄生さん、朝鮮で教授をしていたという金子さん、柳原という幼友だちの祖母、そして表具屋です。 七変人を私が慕ったわけははっきりしています。子どもを「子ども扱い」しなかった。話をキッチリと聞いてもらえたし、得心できる応え方をしてもらえた。しかも、1945年の1日、敗戦日の前と後で、言動はもとより態度や姿勢に少しも変化が生じなかった。その他大勢のオトナは、多くは青菜に塩のようになり、一部はにわかに元気になっていた。 伯母を母は嫌ったが、私は頼りしてした。それはまず、居候して間なしのできごとが関係している。私はブヨに噛まれ、噛まれたところが次々と膿んでしまい途方に暮れた。そうと知った伯母は、自信満々の様子で、母に指図してドクダミを採ってこさせ、その汁を用いて治療してみせた。その上で、母に引き継がせた。 表具屋は、真冬の屋外で、タライで行水していたが、「夏から毎日続けたら、冷たくない」と、教えてくれた。今にして思えば、きっと表具屋は心のなかで「戦争のおかげで、そうと知ったンだ」と、得心していたのではないでしょうか。戦災で焼き出され、寺の軒先に居候していた。伯母も同様だったと思う。渋柿の皮を干して甘味料を作ったし、漬物の上澄みを煮詰めて調味料にした。伯母もきっと、「戦争のおかげで、知恵が湧いた」と、得心していたのではないでしょうか。 ここで思い出したのが当時のマッチ。貴重であったのに、とても火がつきにくかった。何度も失敗して、困り果てたことがある。その時に、「栄生さんならどうするか」と考えながら一発でこの難関を乗り越えている。マッチのジクを2本揃えてする方法だった |