緊急の相談ごと
 

 このところ身近な人が矢継ぎ早にガンに苛まれ、この世を去ったり、生死の淵をさまよったりしています。そこで、ガン治療のありようについて語らいました。かつて、ガンで亡くなった人の死因は、ガンそのものではなく、ガンを抑えようと施した放射線治療や抗癌剤の副作用が原因であった、と聴かされたことがあったからです。この現実を、「医療過誤」と視るか否か。ガンが原因であって「治療のかいなく」と視るか否か。とても難しい問題です。はたまた、死亡診断書は誰が書くべきか、と判断に悩まされます。

 私は、日本の医療システムは本末転倒の典型例(先週少し触れた)と観ており、良心的な医者には誠に気の毒な国、と思っています。

 ですから、私は両親を見とるについて、判断に苦しみました。結果、いかに両親が心穏やかに死を迎えか、という点に集中しました。医者、治療施設、あるいは臨終の場所なども、この面から選択しています。おかげさまで2人ともに、延命治療を拒否し、尊厳を持って10年を隔てて死にました。

 幸か不幸か、ちょうど10年を隔てたそのタイミングに、著作の執筆中でした。しかも、この2冊はともにヒトはどのような生き方を選ぶことができるのか、あるいは死に方を選べるのか、といったことをテーマにしていましたから、2人の死にゆく姿をリアルタイムに収録しています。

 私は、「医者と妻は、あるいは医者と夫は、似た関係にある」と思っています。過ごす時間の長短はあれ、共に苦労や悩みを共にする人でありたい、分身の関係でありたい、と願っているからです。にもかかわらず、「お互いに自力本願同志が出会わなければ、面白くない」だろうと考えています。

 実は今週、金曜日に、私の都合で空白の2時間が京都市内で生じています。そこで昼寝のチャンス! と思いつき、街をぶらつき、「まもなく上映」という映画館に飛び込みました。なんと! 殺人事件の検死官が主人公の映画であり、サスペンスでした。結局ウトリともせずに、次の約束の時間が来るまで、つまり途中まで見ました。「真犯人は誰?」と気にしながら雑踏の市街に出ましたが、そこで大切なことに気付かされています。今のままの医療システムを敷き続けていたら、日本はいずれ、死亡診断書を記す権利を医者から検死官に移さなければならなくなる、との気付きです。

 先週死んだ知人は、化学療法を拒否し、外部には知らせずにおだやかに死に、家族だけの葬送でした。今週はじめに入院した知人は、化学療法に身を任せ、金曜日あたりから放射線治療や抗癌剤治療に入りました。先週の当週記で少し触れた人です。定期的に人間ドックに入り、本人は自覚症状もあったけれど、「まさかガンとは」と医者も疑わなかった人です。最早外科手術は不可能、と診断されています。

 TOSCAでの相談ごとは、医者、薬剤師、そしてマクロビアンの橋本宙八さんの3人を巻き込み、4人で行いました。この3人には共通項が多々ありそうですが、その1つは自力本願です。薬剤師は、医者の指示に従って薬を出すことが多いようですが、「医者の指示だから」との考え方は毛頭なかった。副作用が心配だし、とても高価な薬を、キチンと飲む人がとても心配、とのニュアンスさえにじませました。医者は、ホームドクターシステムの支持者で、頼ってくれる人を病気にさせず、加療不要状態に保つのが医者本来の役目、との考えです。橋本宙八さんは、免疫力など人間の自己治癒力・自然治癒力を尊重しており、放射線治療や抗癌剤はそれらの力をタタイテしまい、損ねかねない、と心配していました。

 この3人と意見を交わしながら、私は、ガン細胞とは「本来の細胞」かもしれないと考え始めました。それは、かつて「老化と寿命」の権威者から聞いた話を思い出したからです。地球に現れた最初の生き物は、寿命がなかった。つまり、永遠に分裂し続け、生き続けるバクテリアであった。この死ねない細胞の生き物が、その後に枝分かれを繰り返し、さまざまな生き物に進化し、今日に至っている。つまり、遺伝子交換を可能にしたり、死ねる細胞の持ち主が出現したりしている。

 要は、私たちは「死ぬ」のではなく、「死ねる」生き物なのだ、と教わった。せっかく死ねる細胞でできた生き物になっているのに、しばしば死ねない細胞も生み出しており、その死ねない細胞が何かの拍子で異常に増殖を始めることがある。それを私たちはガンと呼んでいる、と私は理解ました。