殺気を感じ取る能力
 

 まず孵化して間もない時期のことです。孵化したばかりの小さなケムシは1枚の葉にかたまって食らいついています。その葉をちぎり取って踏みつけて殺すまで、じっと葉に食らいついており、なされるがままです。

 ある程度成長するとケムシは散らばり始めます。木のアチラコチラに別れて行き、次々と葉を移動しながら、盛んに葉を蝕みます。この時期のケムシも、まだ鈍感なまま、といてよいでしょう。妻は、ケムシがたくさん着いた枝を見つけるたびに、「高枝切り」を駆使して枝ごと切り取り、枝葉ごとケムシを踏みつけて殺しています。高枝切りとは、柄を3mほどに伸ばして使える剪定バサミのことです。

 その後、ケムシとしては成長しきったサイズのイモムシの姿になりますが、こうなると夕刻時は少し不気味です。無数のイモムシがサナギとなるために盛んに葉をかじっているのでしょう。その音が静寂の世界で、不気味に伝わってくるのです。いわば聞きなれない耳鳴りのような音、といってよいでしょう。

 「水槽に覆いをして、殺虫剤をまこうか」と、妻に私は提案しましたが、今年も現下に拒否されました。スモモの木が生えている中庭には、大小幾つもの水鉢や瓶がありますが、それぞれにキンギョやメダカを棲まわせています。ですから、それらに毒物が入らないように覆いをして、殺虫剤をまけばどうか、と提案したのですが、一考の余地もない反応でした。ですから、「ならば、まかせておくよ」と吐き捨てるように応え、「その調子で、去年も丸坊主にされたんだよ」と付け加えておきました。

 妻はその後、スモモの木の側を通るたびに、ケムシを探し、高枝切りで退治をしていますが、ラチがあこうはずがありません。もちろん私も高枝切りを駆使できますが、残念ながら、老眼が進んでおり、ケムシを見つけられないのです。

 もちろん妻が、私の身のことも考えてくれていることを承知しています。自分の手で出来ることは、なんとか1人で片付けようとしてくれます。そしていつもキリキリ舞いしています。ですから、私は手伝おうとするのですが、きっと妻は私が念を入れてしまうにちがいないと心配し、自分の手で手早く片付けようとするのでしょう。

 わが家は、完全無農薬で通しているわけではありません。近代科学の成果の一つとして、知恵を絞って生かしています。例えば、父の記念樹「エゾヤマツツジ」を始め、大垣市を去る時にもらった記念樹の「ヒメリンゴ」、長野の友だちがくれた「リンゴ」、あるいはズイムシが好む「ユズリハ」などの保護のために、使います。

 「エゾヤマツツジ」の場合は、ズイムシは幹の根元から侵入しますが、幹の外に放り出したフン(?)の存在で、襲われたことが分かります。直径1mmほどのベージュ色の小さな玉が無数に幹の根元に溜まっているのです。直ちに、幹に空けられた小さなアナを探し、注射針を差し込んで殺虫剤を打ち込み、退治します。

 「ヒメリンゴ」の場合は、幹に残る奇妙な痕跡で判別します。その痕跡が、木を致命的に痛めそうなまでに数が増えだすと、噴霧器で農薬を散布します。最も、予防のために前もって噴霧しておけば良いのでしょうが、そこまでしません。ですから、わが家のヒメリンゴの幹には無数の傷跡がのこっています。

 要は、ケムシといえども、わが家では敵視まで、していないわけです。ある程度は小鳥の餌として居てもらわないといけないし、きっと人体にとっても、免疫を造らせてもらう上で、ある程度は居てもらったほうが良いにきまっている、と思うのです。

 もっとも嫌なケムシは、毒毛が不気味な「イラガ」ですが、そのイラガですら、餌にしてしまう小鳥がいるのです。妻の目撃談によれば、クチバシでイラガをくわえて、まるで魚をくわえたカワセミがするように、首を左右に振ってイラガ幹に叩きつけるそうです。要は内蔵を飛び出させて、その内臓を食べるわけです。

 本論に戻ります。スモモのケムシのそのあとです。葉を蝕む音が耳につくようになってからのケムシの話です。そうなると、ケムシは殺気を感じる能力をとても高めるようだ、と気付かされた話です。

 妻は、高枝切りでは届かないところの枝を切り取ろうとして、脚立を取り出してきて太い幹にかけ、登ろうとしたそうです。きっとその微妙な振動に反応したのだろうと思うのですが、スモモの木の端々の枝にいたケムシが、忍者のように、糸を垂らして地面に向けてスーッと一斉に降りた、というのです。

 

ヒメリンゴ

、幹に残る奇妙な痕跡