生きていることを実感
 

 いつものことですが、これを「没頭」というのでしょうか。フト気がつくと、思わぬ時間が過ぎ去っていたのです。日がすっかり傾いており、「これは! いかん」と思わせられたのです。

 無心になって束ねた3束の薪に、4時間もかかっていたのです。そうと気付かされたあとは、2時間もかけずに残る木片をかき集めたり束ねたりしたのですが、その両者の薪を見比べて吹き出しました。燃やせば共に灰になります。真冬で言えば、前者で風呂を沸かせるのは3日分でしょう。後者でなら、6日は沸かせそうです。

 薪の寸法にナタで切った木片をたばねる作業の話ですが、うずたかく盛った木片の山をかき分けながら、我を忘れて薪の束をこしらえていたわけです。

 没頭した束づくりの手順は次のとおりです。まず縛る紐を敷いて、その上に、束の外側には真っ直ぐな木切れがくるようにして積んでゆきます。さもないと綺麗な束に仕上がりません。束の中程には少しぐらい曲がったのをいれても大丈夫、いや! むしろそのほうが摩擦係数がまして滑りにくくなり、良いぐらいです。

 ひと通り気に入った束ができると、その束を立て、束の隙間を埋めるようにしてさらに木片を差し込んでゆきます。何本も何本もの木片を差し込まないと、気に入りません。なぜなら、保管している間に乾燥が進み、束が緩み、持ち運ぼうとする時に束が崩れかねないからです。ナタの背で、カンカンと打ち込みながら差し込んでゆきます。

 かくして1束、また一束と縛ってゆくわけですが、しだいに積み上げてあった木片の山が低くなって行きます。同時に、キレイな束をつくれる木片が見つけにくくなり、時間を要するようになります。そうと気づいた時には早4時間が経過していたわけです。

 この日の予定は、囲炉裏場に溜まっていた木片を片付けてしまうことでした。そこでやっと、気付かされたわけです。1束目より2束目が、2束目より3束目がと、キレイな束をこしらえる木片を選び出すのに没頭し、次第に時間を要していたわけです。

 「この調子だと、とうてい日のある間に片付けられない」と気付かされました。立ち上がって背を伸ばし、あとは義務感の時間に切り替えました。暗くなるまでに囲炉裏場をきれいにしてしまう時間にしたわけです。

 残っている木片を、手早く束にできる木片と、束には出来ない木片に2分し始めました。束に出来ない木片は、あらかじめ用意してあった容器に放り込みます。よく考えてみれば、燃料にするわけですから、束にせずとも良いわけです。そんなことは先刻承知です。ですからあらかじめ、そのための容器を用意してあったわけです。にもかかわらず、またぞろ、キレイな束作りに躍起になっていたわけです。

 束に出来ない木片を用いて風呂を沸かすのは私の担当です。にもかかわらず、束に出来そうにない木片まで分別して、なんとか1束でも多くの綺麗な束を造ろうとしていた自分に気付かされた次第で、苦笑です。ただ、そうするほうが気分がスッキリするからに過ぎません。しかし、「おそらく! それは」、と考えました。

 第三者に囲炉裏場の掃除をさせていたら、私のやり方をする人がいたら、きっと叱っていたでしょう。燃料という次元で考えれば、不合理この上ないことを、自分好みだというだけの理由で、していたことになるわけですから。でも、思い直します。「そうと分かっていながら」いつも同じ事をしてきたからです。

 「これが楽しいのだろう」。「いや、他に『もっとしたことがないのか』と自問する気が起こらなかったわけだ」などと考えます。実はこの度も、ここまでは、これまでと同じようなことの繰り返していたわけです。しかし、作り上げた束を観て、考え直しました。

 あまりにも丁寧に大きな薪の束をこしらえていたからです。「それにしても」と考えました。自分で風呂を焚く場合は、束に出来ない木クズを用いているのに、どうして束作りに躍起になってしまうのだろうか、と考えました。

 わが家の風呂は、いざというときのために、ガスでもわかせるようになっています。しかし、ガスで風呂を沸かしたことはありません。いわんやわが家にお泊めする来客には、薪でわかせた風呂に入ってもらいたい。とはいえ、来客のなかには、シャワーを使いたい人もいるでしょう。そのために、来客時にはシャワーをセットしていますが、少なくとも私自身がシャワーを用いたことはありません。

 それはどうしてか、よくはわかりません。しかし、生きている間に、生きている実感をより強く感じたく思っているに違いない、と感じています。

 少数民俗村に出かけたりしますと、実に素朴な生き方に出会えます。そうした不便な環境のもとでは、少しでも快適な生活を願うと、お互いに助け合わないと手に入れられないことに気付かされます。ボタン1つを押すだけで使えるような風呂などありません。ですから、泊めてもらったお返しに、風呂でもわかさせてもらおうか、などと思って焚き口を覗くことがあります。そこに、どのような薪が置いてあるのか。そのありようによって、私はとても心を大きく動かされることがあります。

 そうしたときに、なぜか私は、私の良い方の心が悪い方の心を抑えていることに気付かされ、少しは己がマシな人になろうとしていることに気付かされてきたのです。もちろん、この心境に至るまでに、いろいろなことを感じています。まず最初に感じたことは、なるべく薪を無駄にせずに、少しで少ない薪で焚き上げようとする努力であったように記憶しています。

 

風呂を6日は沸かせそうです

無心になって束ねた3束の薪