焚き火事件
 

 みかさんの実家に、つまり私の友人の家に、過日大型の消防車が駆けつけたそうです。友人が庭で煙を立てていたわけです。友人は、こんこんと消防署員に説いたそうですが、聞く耳を持ってもらえなかったとか。とにかく火を消させて欲しい、と頼み込まれたわけです。それもそのはず、消防も、誰かの通報に動かされたわけで、被害者です。消防は、「匿名であれ」通報があれば、駆けつけて確認することを義務付けられています。何かがおかしい。なにかキナ臭い匂いが漂ってきます。

 かつてわが家には匿名の投書がありました。無視していると、ある日消防を名乗る男が単身で訪ねてきました。その後、その男は管轄外の人であったことが判明しましたが、そうとは知らずにその時は、私はひと通りのやり取りをしています。私は、この庭での70年にわたる焚火の歴史から紐解き、焚き火の是非を論じました。この男はその時に、「消防車が駆けつけてもいいのですか」と迫りました。

 そこで、何かが「おかしい」と気付きました。そこで、より望ましき市民でありたいと願っている私は、最寄りの消防署を訪れています。大げさないいようですが、ある時期から(反省することもあって)私は望ましき人でありたいと願うようになっており、その一環として消防を訪れたわけです。わが家にも訪ねてもらいました。わが家の焚き火の現場を確かめてもらい、望ましき会話もできましたし合意もできました。

 もちろん危険な焚き火が許されてよいはずがありません。だからといって、煙を立てることが禁止されてよいはずがありません。それは基本的人権を踏みにじることです。ヒトが、つまり動物の一種であったヒトが、サルから枝分かれして類人猿となり、やがて「人」らしくなるわけですが、それは火を自由に扱うようになったときから、と断言してよいでしょう。火には煙がつきものです。また大げさに言えば、「火を合理的に国民が独自に扱う権利」こそが、基本的人権の根源、根本だと私は思っています。

 もし国が、あるいは地方自治体が、この基本的人権の根源を剥奪しようとするなら、いかなる天災や事故などが生じようが、国民を煙や火災で苦しめない保証はもとより、温かい食事の保証もしなければいけない、と思います。さもなければ、せっかく戦後になって、新憲法で獲得した基本的人権がないがしろにされかねない方向に走りかねません。

 国民を火災で苦しめない保証とは、たとえば火災時に、煙におののいて逃げ惑わないようにする保証も含めるべきでしょう。そのためには、悪しき煙を吸わなくて済むように煙の峻別能力を授けておくことなどをすべきでしょう。

 温かい食事の保証とは、家畜のように食べ物を与え続ければ済む話ではなく、自ら調理をして食事がとれるようにする保証を含めるべきです。欧米では、台所を分別しています。たとえばキッチンは火の使える台所、ギャレは火を用いられない台所です。これは、火をそれだけ重視し、重く認識している証ではないでしょうか。

 もっとも、温かい食事ぐらいはオール電化でも間に合わせられるだろう、との考え方もできます。しかし、それは、そうせざるを得ない人とか、そうしたい人の可能性の域にとどめておくべきです。オール電化が可能だから、煙はたてさせない、火を用いさせない、に結びつけていって良いはずがありません。

 太平洋戦争では、米兵は缶詰を多用しており、闘いながら食事をとっています。日本兵は、日本にも缶詰はあったのに、飯ごう炊飯を余儀なくしていました。基本的人権が認めていない当時に、この現実にさおを挿せば、理屈を述べようものなら、「傲慢だ」といってぶん殴られるだけで済まず、国賊扱いされたでしょう。

 その後も、国は勝手なもので、「煙は動くアクセサリー」とのキャンペーンで、タバコを奨励しまくらせています。

 それはともかく、日本では今、原発の是非問題が微妙な段階に達しています。福島事件の被害者保証はもとより、放射能による後遺症対策も、事件の原因究明も、同類事件の再発防止策も、さらには核燃料廃棄物の処理策も明らかにせずに、再稼働だけを推し進めつつあります。推し進めようとする勢力が声を荒げ始めています。

 これまで通りに原発の稼働や増設を自由勝手にしたい勢力は、原発の対極に位置する焚き火を厳禁にしたいことでしょう。そしてオール電化を進めたいことでしょう。つまり、電気に頼らなければ片時も生きられない立場に国民を追い込めば、原発を必要悪として認めざるを得なくさせられるわけですから。

 米カリフォルニワ州の州都・サクラメント市では市民が独自の電力会社SMUDを保有していますが、これは巨大資本などに基本的人権を握られたくないとの市民の熱望が作らせたものです。そして、ランチョセコという原発を設けながら、小さな事故が続き、直ちに住民投票をして廃棄しました。電気よりも、人生を重視したわけです。生きとし生けるものの生命を重視したわけです。