無性に寂しく
 

 わが家は常寂光寺と地続きの関係です。この土地に私は1963年に家を建て、住み着いています。この土地は戦時中に開発されており、不治の病にたおれた父が1944年に買い求め、妻子に農業で生き延びさせた土地です。常寂光寺と北西の一角で接しています。

 この隣人、このたび逝去された常寂光寺の長尾顕彰上人を妻は心の支えにして生きていた時期があります。それには長い話がともないます。

 私が10歳の時に、8年の闘病生活を経て父は再起、社会も落ち着き、父は社会復帰。この土地は荒れるに任されました。私は、社会人になった翌年に、住宅金融公庫のお金で、荒れはてたこの土地に小さな家を建て、終の棲家にしました。疎開した当時は、村には常寂光寺を含めて16軒しかなく、私の建てた家は17軒目でした。

 時代は高度経済成長が軌道に乗った頃でした。私は商社員でありながら隠遁者のような終の棲家をつくったわけです。それには常寂光寺がおおいに関係していたように思います。間違いのない事実は、28年間のサラリーマン生活の間も、海外出張時でない限り、ほとんどの日曜日や旗日は、この土地にへばりついていたことです。

 戦中戦後の常寂光寺には梵鐘がなかった。献納したわけです。その頃の常寂光寺は荒れ果てていました。やがて今日の姿になりますが、それは長尾顕彰住職のなみなみならぬ努力の賜物です。週日は給与所得者として働き、日曜日や旗日は寺の掃除に明け暮れる姿が望まれました。やがて梵鐘が響き渡るようになります。在宅時、とりわけ庭仕事の日は、この鐘の響きを私は1つのリズムのようにしていたように思います。

 長尾顕彰上人は私より一回り年上の寅年でしたから、私が西宮から当地に疎開したころは17歳であったわけです。その父親はすでに亡くなっており、2人の姉は嫁いでいた。母親と住職代行の栄正さんの3人が寺を守っていました。栄正さんは、いわばピンチヒッターであったわけです。元は寺男として下働きをしていたようで、檀家回りから帰ると、ただちに野良着に着替え、庭掃除や農作業をしていました。

 私と常寂光寺の関係は、栄正さんから始まっています。いつも、檀家回りからの帰り道でつかまえ、話し相手になってもらいました。2人で石段に腰掛けて心ゆくまで話を聞いてもらいました。今から思えば、さまざまな差別、性別や出自、身分や貧富などの差のつまらなさを諭されていたのではないか、と思います。都会から疎開した私は、小学校ではあからさまに「よそ者」扱いされていまいた。

 長尾顕彰上人のご母堂については、ほとんど記憶がありません。「栄正」「栄正」と呼び捨てにする声と、お盆に山盛りにした柿をわが家に届けてもらった時の姿だけが記憶に残っている程度です。その日の私は、今もこの寺の鐘楼の側に柿の木が生えていますが、その木に登って実を盗んだのです。ですから、とてもバツの悪い気にされたものです。

 長尾顕彰上人と私の関係は、ある事件をきっかけにして始まっています。近所の3000坪の農地(水田)が宅地化され、10区画ほどにわけて高級分譲地とされかけた時のことです。「素晴らしい考え方をする人だ」と、惹かれたことを記憶しています。

 その次の記憶は、自治会の寄り合いで、厳しく叱責された記憶です。「森さんが黙っていたから、問題はないものと思っていた」と、迫られたのです。それは、わが家の裏地に建てられた家が、不法開発された土地であり、不法住宅であったと判明した時のことでした。この裏地は、常寂光寺、わが家、古都保存法で守られている小倉山、そして京都市所有の小倉池に囲まれています。元は、小倉池の水を涵養する袋地の沼でした。

 その後、長尾顕彰上人の提案で、近隣で乱開発問題が生じた時に備える「地区推進委員会」なる会が結成され、私も選ばれました。そして様々な問題が生じるたびに、とりわけ乱開発問題が生じると、足並みを揃えて活動するようになりました。

 もちろん、乱開発は錬金の源泉です。まともな人には許されない法律違反であるがゆえに、まともでない人が錬金の源泉にするわけです。その不法行為に竿をさそうとする人は、まともでない人と対峙しがちとなります。

 わが家にも、そのまともでない人が押しかけてくることがありました。ちょうどその最盛期に、私は出張が多い立場にありました。毎年、40日におよぶ欧米出張もありました。その間に、まともでない人が押しかけないでほしい、と願いながら出かけたものです。

 後年、もうその心配がない、と思われた時期になってから、「不安ではなかったか」と妻に問いただしたことがあります。妻はキョトンとした顔をしていました。そして、一言、「その時は、お上人のところに駆けつければよいのでしょう」と問い返しました。

 このお上人は、まともな弱き人にはとても優しい人でした。逆に、強い立場なのに卑怯な人にはめっぽう怖い人でした。ですから、私はこの人を怖がる人や、よく思わない人は警戒することにしていました。

 ご近所で、このお上人のような人に恵まれることはとてもありがたいことです。逆に、いろいろな面で、突つかれては困ることがある人には耐えられないし、到底真似られないところです。清廉潔白とはこういう人を指しているのでしょう。

 その優しさや怖さが唐突に消えさってしまったわけです。きな臭くなった世の中のことについて、話し合いたかったものだ、と思われたなりません。