多々学ぶことができたのです
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これから生きている限り、わが国を台風が襲うことになるたびに、私は沖永良部島をしのぶでしょう。この周囲50kmほどの島を、2012年は15号から17号までの3つの台風が連続して襲っています。塩しぶきを吹き散らしたうえに、その塩を雨で洗わない風台風が幾日も竜巻のように停滞したようなこともあり、アダンやソテツをはじめ、多くの樹木がひどい被害を受けていました。 サトウキビは十分に育たず、糖度が上がらす、収穫できなかったようだし、バナナも壊滅したようで、期待していた島バナナを味わえませんでした。 2700軒が加入している有線放送ですが、まず500軒が切れ、これが復興する前に200軒が、次いで300軒が、と切れてしまい、不安な日々を送ったようです。 まず牛乳が、次いで野菜がなくなるなど、店頭から食料が次々とすがたをけし、昔を知る人は飢饉の恐怖さえ感じたようです。ガソリンも、フェリーが抜港したために事欠き、大きい備蓄タンクを持つ日石一社に頼る日が続いたとか。 この島は33年前に、空前絶後の台風、9号「沖永良部台風」に襲われています。計器が次々と壊れてしまい、正式な記録が残されていませんが、最低気圧を記録し、最大瞬間風速は80kmと推定するむきもあるようですが、100kmに達していたであろうと考えられています。明治31年にも大型台風に襲われており、その後疫病が蔓延し、大勢の島民が神戸などに移住しています。 「共通語」という言葉がありました。島を訪れ初めて4年目にして、初めて気付きました。それは「ヤマトグチ」、つまり日本語のことです。狭い島に多くの村ありますが、かつては村ごとの方言があり、互いに通じにくかったようです。ですから、日本語を共通語と呼び、生かしてきたわけです。 それは、昭和35年頃から水道が引かれたのがキッカケです。村落間の婚姻がすすみ、日本語が共通語として急速に生かされるようになっています。当時の人口25、000人が、42の村を形成していましたが,42の方言があったそうです。 なぜ水道と村落間の婚姻に関わりがあるのか。それは、それ以前の水の確保が至難を極めていたからだ、とのことでした。思うに、水に関わる文化が高度かつ厳密に育てられており、異文化間の交流を驚嘆に難しくしていたのでしょう。要は、自然水の使い分けが厳格であったわけです。1本の清流が生活の水源であれば、飲料水を汲み取る場所に始まり、オシメを洗う場所で終わるなど、守るべき厳格な約束事がうまれ、伝承され、文化として守られていたわけです。この文化を不要にしたのが文明の利器、水道です。 昨年から大きく変わったことは、名産品・デンショウギク(電照菊)の育て方です。夜間に車を飛ばしていた時に「ギョッ」とさせられました。前年までと違って、赤色のLEDに替わっていたからです。不気味に感じましたが、生産効率が良いそうです。 最後に2本のガジュマル。島の西端に国頭小学校があり、日本1と称されるガジュマルがあります。もう一方は、島の東端にある住吉小学校で、かつては大きなガジュマル双樹がありましたが、今は1本になっています。共にグランドの一角にあります。 国頭小学校では、八方に大きく育ったガジュマルの1本の枝から、1本のヒゲのような根が垂れ下がっていました。それには添え木がしてありました。八方に張り出した枝を見渡すと、既に大きな幹のごとくに育った福根がたくさん立っていました。そして、4年前に見た時と同様に、日当たりに恵まれた時のガジュマルらしく、大きく横に広がって悠然と育ち続けていました。 他方、住吉小学校ではみじめなことが生じていました。その様子はホテルのロビーで知りました。双樹の一方が根元から折れた姿を、町の広報誌が表紙に載せていたからです。住吉小学校では、ガジュマルの根元を、グランドの面積を広げ、子どもが躓かないようにと削ったようです。そして、福根をことごとく切り取り、背を高く育てあげていました。グランドで過ごす時の小学生を第一にしてきたのでしょう。 国頭小学校では文化を尊重しているのでしょう。この木の側にある1つの銅像もそれを示しているように感じました。塩づくりに関わる女性の像で、頭の上に桶を載せ、運んでいる姿です。かつての村の生活の代表的な光景でしょう、 他方、住吉小学校では文明を志向しているのでしょう。X’masをひかえ、とても高い樹冠から傘の如き電飾が施されていました。点灯した折には、子どもは歓声を上げたに違いありません。 |
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樹木がひどい被害を受けていました |
赤色のLEDに替わっていた |
大きな幹のごとくに育った福根がたくさん立っていました |
町の広報誌 |
塩づくりに関わる女性の像 |
傘の如き電飾が施されていた |