商社時代の同期生
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食料問題とブータン自慢の詳報を知らせてもらった同期生は、今は新たに2つの顔を持っていました。1つは、大学職員としての顔です。この度はその立場を生かして、教育学者の見る食料問題の未来像と、商社時代の実践的に修得した食料問題に関する知識とを照らし合わせ、独自の未来像を考察し、知らせてもらえたのです。 この男は、伊藤忠が安宅産業と合併した折に安宅産業から移籍しており、食品業界では1つの金字塔を打ち立てています。食品部門では「コメ」など穀物を取り扱っていましたが、「ゴハン」にして冷凍パックし、全国規模で流通させる先駆けとなる子会社の創設を提案し、軌道に乗せています。それまでは、「ゴハン」の一括炊き上げ配布は、有馬温泉協同組合や関東のコンビニ弁当で活かされていた程度ですが、コメの自由化を見込み、川下から手を打っていずれは川上に攻め上る作戦であったようです。 安宅産業といえば、私にとってはひときわ感慨深い企業です。昨今は、若者の就職活動が困難を極めていますが、それだけにその想いはひときわです。なぜなら、半世紀前、わたしは就職について安宅産業と伊藤忠のいずれを選ぶべきか父に相談しています。両社とも本社が大阪でしたし、求人会社リストの1番上が安宅産業であり、次が伊藤忠でした。 父は、「『糸偏』の伊藤忠より『金偏』の安宅産業を選べ」を勧めました。長男であった私は、その後、伊藤忠のほうが通勤するうえで便利とわかり、安宅産業を選びませんでした。「終の棲家」を、母が耕作放棄した荒れ地につくり、両親と同居する夢を抱いていたからです。 入社した伊藤では、繊維部門に配属されますが、凋落する繊維業界の荒波には抗しきれず、じり貧になります。安宅産業は経営陣が犯した過ちで消え去り、大勢の社員が悲惨な目にあわされます。伊藤忠は繊維部門以外の補強になる安宅産業との合併をします。 私は繊維部門の生き残り作戦に走り回っていたころ、この男は食品部門の補強に走り回り、お互いに新子会社の創設に勤めていたわけです。 半世紀前、繊維産業は3割産業と呼ばれていました。工業出荷額の3割を繊維産業が生み出し、輸出額の3割を繊維産業が占めていました。そして当時の伊藤忠では、商い額の半分以上を繊維部門が占めていました。 今は、自動車や弱電などの輸出型大手組立産業など上場企業への就職を願う学生が就職活動で苦労していますが、早晩かつての鉄鋼や繊維のように衰退してしまうでしょう。代わってどのような市場や産業が花形になるのか、この見極めが特に大切な時に差し掛かっている、と見ています。 |
独自の未来像を考察し、知らせてもらえた |