「日本で最初の曲物(まげもの)の著作」
 

 とても心を落ち着かせる著作に巡り合えました。この実感と喜びを共有しあえるようにと、わが家では、来客の寝所にもしている部屋に持ち込みました。「京都」にまつわる常備書籍に加えたわけです。

 きっとこの一書を手にした多くの方が、これからの日本が生きる道を、そのヒントを感じ取って下さることでしょう。この半世紀ほどの世の中とは違って、これからは「最小の消費で、最大の豊かさや幸せを求める」世の中に代わることでしょう。つまり、「美意識や価値観の転換」を、せんじ詰めれば「意識の転換」を求められるに違いありません。

 時々刻々と私たちは、地球という閉鎖空間で生きていることを認めざるを得なくなることでしょう。そして、地球がいかにも小さくてよわよわしくみえはじめるにちがいありません。にもかかわらず、限りなき豊かさや幸せを追求し続けたい人間の気持ちは抑えがたいことでしょう。この2つの課題をいかに整合させるか、その仲を取りもつ道は何か、それは量の追求ではなく、質を追求することによって切り拓かれることでしょう。

 そのモデルを私なりに探し求めましたが、その最適例はわが国にありました。それは秀吉がのめりこみ始めた「最大の消費で、最大の豊かさや幸せ」を求める心を、千利休はいさめようとしました。その「ワビ・サビ」の提案は利休死後の江戸時代に結実したとみてよいのではないでしょうか。

 私は茶道にも茶器にも無縁なのに、この一書に心がとても和みました。それはなぜかと考えました。ふと、利休に想いをはせたわけです。秀吉に一言詫びれば生き残れたのに、死を選び、安らかに死に、その哲学を後世に残したことを振り返りました。きっと未来にその真価の評価を託したのでしょう。

 これからの世は、2極化が進むことでしょう。一方は、工業化の究極です。その一例はソ連健在時代の共産圏の小売店頭で見ています。計画経済の産物です。多様性を犠牲にした合理化製品です。いわば世界中の需要にこたえるために一極大量生産した代物です。つまり究極の規格化複製消費財です。その走りは、世界的な展開を意図したファーストフードであり、定番化した衣服とかプレハブ住宅でしょう、

 他方は、職人技が生み出すオリジナル品です。この品は、きっと世代を超えて引き継がれ、次第に価値を高めてゆくことでしょう。

 この2極化は人間の2面性がそうさせるように思います。「いきもの」の一種にすぎない動物としての一面に応える代物と、「人間たるゆえん」に応える代物です。

 わが国の多くの「道(どう)」は、後者に応えようとして誕生したのではないでしょうか。もちろん、今日の「道」の多くは形骸化しており見直しも求められそうに思います。