反省が伴った知らせ
 

 中央環境審議会(環境省)が、3RからリサイクルのRを抜いて、2R重視の方針を検討していたと、リクチュール企画の真の推進者である木田豊さんから聞かされ、とても反省しました。なぜなら過日の、(書生に聞いてもらいたくて組んだ一連のスピーチがありましたが、その最後の)企業人対象のスピーチの内容をもうすこし手直ししておけばよかったのに、と思ったからです。

 もちろん、学生対象の内容よりも丁寧に、工業社会の延命策のようなリサイクルは問題の先送りになる、というところから始めています。つまり、工業社会を延命させるために「せめてリサイクルでもしなければ」といった考え方は大問題であると訴えています。これは私の20数年来の持論(工業社会に次ぐ新時代「第4時代」に移行しようとの呼びかけ)です。中央環境審議会(環境省)が、リリサイクルを抜いた2Rを推進しなければ、と考えた根拠も「気休めのようなリサイク」では問題の先送りになり、決してリデュースには結び付かない、と気づいたのでしょう。それでをは消費者が、リサイクルしているつもりいなって安心して、むしろ消費を促しかねないと気づき始めたからでしょう。

 もちろん私は、集まっていた企業人に、進んで「新時代」を切り開こうとするか、さもなくば法律で強制され、やむなく移行せざるを得なくなるかの選択がせまられる、とも発言しました。しかし「聞きたくもない」とでもいったような雰囲気で、反応は鈍かった。ここで問題にしている「リサイクル」は、アメリカでは1995年時点で「ダウンサイクル」と呼んでおり、問題をより複雑にして先送りするだけ、と考えていました。この点は、手前味噌になりますが15年前の著『「想い」を売る会社』(1998年日本経済新聞社)に収録しています。

 以上のような趣旨の[新時代を切り拓こう]との呼びかけは、それまでの聴き手であった日本の学生の過半や、リズさん一行は共感してくれましたが、最後の企業人は共感どころか私の目を直視さえしてもらえず、わが父を思い出させられたほどです。

 父は、避けて通りたいことは、知らずに済ませばよい、とでも思っていたようなフシがなきにしもありませんでした。たとえば、死でに出かけています。しかし父は、ついに墓地を見にゆかなったし、葬儀のありようについての話はしませんでした。

 私は逆に、例えば戦争なら、徹底的に最悪の事態を想定し、敗因を分析し、こうしたら負ける、こうなったら勝てない、といった分析を試みます。逆に、「捕らぬ狸の皮算用をするような意見」をいさめます。それが楽観主義のしてくれるのだ、と信じています。

 この伝で言えば、わが国は、太平洋戦争と同様に、経済戦争でもこのままではお先真っ暗、と言えそうです。そのようなわけで、最後のスピーチの対象であった企業人には、もっと心を強くして、厳しく訴えればよかったようだ、と反省したわけです。要は親も切るような「親切」や、より深く切り込む「深切」もせずじまいだったのです。

 中央環境審議会(環境省)がリリサイクルを抜いた2Rの推進を検討していたことを事前に知っておれば、もっと親切や深切になれていたのに、と反省したわけです。

 ちなみに、この集まりでは、歓談の時間に、楽しい思い出話も飛び出しています。事務局員の1人は顔見知りで、1994年に訪れた西ドイツの思い出話に花を咲かせたのです。その折はフライブルグなど8都市を訪れましたが、彼は8都市9店のおもちゃ屋を覗いています。そのいずれの店頭にも、武器などの戦争関係のおもちやキャラクターがついたおもちゃがなかったことを思い出したわけです。