母の場合も
 

 母は(末期に)に、(とても良くしてもらっていた)病院長に頼みこみ、希望を通してもらいました。それは、臨終は「自宅で、妻の看病の下で迎えたい」です。それを許した病院長は、週に2度ほど様子を見に来てくださることになりました。その後、わが家の事情を知ってのことか、ありがたい忘れ物をしてくださったのです。

 わが家では戦中戦後、病床にあった父は息子の健康にことのほか神経を払っていました。家庭で母に注射を打たせていました。注射器と針は熱湯で消毒して使い回し、ハート型のやすりで「カルチコール」などという透明の液剤が入ったアンプルを切り、打ってくれました。もちろんその道具は今も残っていますし、私もその要領を今も十分承知しています。

 母の願いを院長が認め、妻もその願いを受け入れたことに私は驚きました。もちろん心配でもあり、緊急事態をあれこれと想定しています。現実にその後、母は腸閉塞を起こし、激痛を訴えてことがあります。その時は、昼間でしたから院長に駆けつけてもらい、腹をもんでもらって事なきを得ています。この処置に、私は「いきもの」としての安堵と自信を与えられました。

 でも、「もしこれが真夜中に起こったらどうしよう」と私は心配でした。しかし妻は「病院に戻そう」とは言いませんでした。きっと院長の処置を見ながら、いつも絵の具のチューブを絞っている妻は、母の腹の中で生じていることが瞼に浮かんでいたのでしょう。妻のことですから、院長をまねて手当をしよう、それが母の願いと腹をくくり、覚悟を決めていたのでしょう。また、母のことですから、先生をたたき起こさず「小夜子さん、お願い」と思っていたはずです。

 その日、院長を送り出し、母のそばに戻ってみると、院長がモルヒネのアンプルを出したまま、置き忘れて帰られたことに気付かされました。私は院長の後を追いませんでした。

 かつて私は商社時代に、膵臓をやられ、会社の医務室でモルヒネを打ってもらったことがあります。注射の途中で激痛が消え去りました。その体験も思い出し、私は院長の忘れ物に感謝しました。幸いなことに、母はその後、激痛に悩まされずにすみ、使用せずに済みました。

 その後、院長から「もって2〜3日」と宣告されていますが、妻はひるむことなく看病を続け45日も生きながらえさせました。そのやり方は、小学生のころに見たある思い出を振り返らせました。巣から落ちた(落とされた?)小鳥のヒナを、小学生の友だちが、電球で暖を取らせるなどして育てたのですが、その光景を思い出したわけです。

 ケンは今、ちょうどそうした要領で生きながらえさせられていますが、私は「それで幸せですか?」と、ケンに問いたい気分です。ですから私も、ケンのそばによって、時々ケンの頭などに指を当てます。必ずケンは首を動かして反応し、私は掌で頭や首を撫でます。

 「もちろん野生なら、とっくの昔に死んでいるでしょう」と妻は言います。「でも」と心の中で2の句をつないでいるのでしょう。かく、世話を焼きますが、私はとてもうれしく思っています。「犬と人間をいっしょくたにして」と思う人もあることでしょうが、私は「ヒト」ト「イヌ」程度の差に過ぎないし、人間も自然の一部だと思います。妻も同様の想いでしょう。

 先週迎えた友人夫妻は、ある哲学者の「真似たくなるような最後」を話してくれました。その人は、心配する家族にさえ気づかれないようなペースで、徐々に食を断って行き、最後まで家族と意思疎通の会話を交わしながら、餓死した、というのです。

 もちろん私はそうありたい、と思いましたが、その時も、伴檀衛門(?)の辞世の句を思い出しています。死の問題について日頃は達観した意見を述べていた男であったようですが、臨終に際し、「これまでは他人(ひと)のことかと思いしに、己のこととはこりゃたまらん」とうたったというのです。