万感の思い
 


 2万5000人の卒業生を有する短大です。その学校が新学科を創設し、新校舎の落成式典を執り行いました。私は、かつて学長の白羽の矢が立った時のことを思い出しました。予期した成果を収め、学校を去った時のことも思い出しました。実はその時に、1つだけ気がかりなことが生じていました。私が「悪しき前例」になりかねない不安でした。この度、その不安を解消するうえで絶好の機会をえられたよう感じたのです。待ちにまっていた好機です。

 学長の白羽の矢が立ったのは、母が危篤状態に落ちいった早春のことでした。定員割れが明らかになっていました。大勢の卒業生にとっては最終学歴である短大をなんとしてもこの世から消したくなかった。そこで、学校当局には理事長や前学長にも母が危篤状態であることを伏せてもらい、わが家では母の許可を取ったうえで受けることにしました。

 事前に、こうしたことを、妻はもとより母にもかつて相談したことなどありません。商社やアパレルをやめる時も、子会社の社長になった時も、事前に相談などしていません。しかし、短大の学長は別でした。家族にどのような不便をかけるかわかりません。そこで、まず妻に相談し、母にも直接知らせることにしました。

 母は「講義はどうするの」と質問し、「続けられる限り続ける」との私の答えに「ご苦労さん」とだけいって、口を閉じました。私の決意が通じたのでしょう。妻は、母が「おめでとう」とでもいうものと思っていたようで、母を見直していました。

 私は、65歳までに4年の猶予がありましたから、その間は全力で学校の立て直しに取り組む決意を固めました。それは私の勝手な事情でした。まず定年問題です。この学校では、学長になると定年がなくなりますが、私はこの例外規定に従いたくなかったのです。私が敬意を払っていた大勢の教授が不本意にも65歳で学校を去っていたからです。不本意とは、この定年規定が、私が理事になってから決まったもので、それまでは70歳定年制でした。にもかわらず、この規定を、それまでに勤めていた人たちにまで従わせたのです。

 私的な都合もありました。わが家のリビングシステムとしての庭に、まだ力をふるえる間に加齢対策を施したかったのです。65歳なら、石を用いた階段づくりなど、恒久的な工事をする方があります。なんとしても、サラリーマンをしながら、独力で、「ポスト消費社会に備えた生き方」ができる庭のモデルを完成させたかったのです。

 ですから私は学校で、「学校のお金は学生のお金」と位置付ける意識改革とか「小巨さな人」など型破りなプログラムを次々と打ち出しました。幸いなことに、学生と教職員の協力をえて、願っていた通りに3年間で、全学科定員オーバーの学校にできました。ですから一期で学長の座を引き、名誉教授となり、学校を去りました。その時に、「悪しき前例」になりかねない不安を感じていたわけです。

 新校舎の落成式典で分かったことが幾つかあり、安堵しました。新校舎は学校が11億円をもち、大垣市の2億5000万円と企業35社の5000万円の寄付、計14億円で出来ていました。

 新設したのは看護学科で、看護学校であった姉妹校1学年40人を閉鎖し、定員80人にしたと聞かされました。そして、既存の学科を活かして「小さな巨人」のごとき看護師を育てようとしていたことです。問題はこれからです。

 事前に、後任の学長にエールを送る手紙を出しておきましたが、「びっくりした」との感想を述べていました。返事をしたためてもらったようですが、入れ違いであったようです。