この旅では、2つの願いを心に秘めていました。まるで自給自足のような生き方を選び、毎日野良仕事に精をだしている川上アリエさん(84歳になった)と語らうこと。そして、隠れキリシタンの足跡を探る手がかりをつかむことでした。この2つに加えて、天草の歴史や風物などにも惹かれました。
天草では『天草本』と呼ばれる日本最古の『イソップ物語』が誕生しており、その1冊が今も大英博物館に所蔵されているそうです。キリスト教の布教のために文禄2(1593)年に、ローマ字の日本語で刷られた、と知りました。
それもそのはず、天草は西欧に開けるのがとても早い地域であったわけです。それも天草で百姓一揆が頻発した理由の1つであろう、と思わせられました。キリシタン天草四郎が指揮を執った乱は有名ですが、その残確な権力側の振る舞いに、改めて思いをはせました。
天草は深刻な旱魃に襲われることが極めて多い地域です。農業に携わっている人は今も、雨水を溜められそうな容器はことごとく生かしています。つまり、とても厳しい生活を強いられていた地域であり、それが百姓一揆頻発の理由と思っていましたが、それどころではなかったようです。為政者に対する批判的な思想が育っていたのでしょう。つまり「幕藩体制」と「人間の尊を中心とする西欧の近代思想」との衝突、の一面もあったようです。その衝突が、りょうけんの狭い権力との間で生じたら、いかに残酷な結果に結び付けるか、容易に想像できそうです。
獅子文六は、天草を「女性の島」と呼んだそうですが、納得させられました。昔から天草は、肥後、薩摩、肥前といった強い藩のはざまにあって、身の振り方に神経をとがらされていたことでしょう。そうした人たちが人間の尊厳に目覚めたら、いかなる方向に噴火するのか。
それはともかく、「からゆきさん」も天草での話でした。天草人の出稼ぎの1つの形態です。天草女性の海外進出者は「娘子軍」と呼ばれていたそうで、明治20年ごろから始まり、太平洋戦争勃発まで続いていたそうです。その末期に海外に出かけた女性たちの消息がとても気になります。
かの「ペーロン」競技も天草の伝統行事でした。天草下島の北西部に突き出した半島がありますが、その富岡で繰り広げられてきました。
鳴門の「阿波踊り」が、天草に発していたことも知りました。このたびの旅で、まず荷を解いたところは牛深の砂月(さつき)でしたが、砂月は天草下島の南端にある900平方km足らずの島です。そこでは南風を「ハイヤ」と呼んでいますが、その「ハイヤ節」が「阿波踊り」の原点でした。「牛深三度行きゃ、三度裸。鍋釜売っても酒盛りゃしてこい」と囃し始めるそうですが、そのテンポとリズムは「阿波踊り」の空らと同じでした。毎年4月中旬に「ハイヤ祭り」が盛大に執り行われています。
こうした多くの話は、大江天主堂を訪れたおりに、たまたま声をかけた人が良かったおかげで知りえたわけです。司馬遼太郎が『街道をゆく』の取材時に力を借りたと言うM名志松のご子息であったのです。M名志松の資料館を開き、ガイドもされています。
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