不本意な死を切腹で遂げた武士の鎮魂
 

 武士の名は、島津忠謙。常陸守(ひたちのかみ)でした。永禄8(1565)年、忠謙は領土を広げようと長島の難攻不落の堂崎城を攻めます。援軍も得て攻略に成功しますが、その後で不本意なことが生じています。嫌疑をかけられたか言いがかりをつけられたようで、切腹して果てたのです。その死にざまが凄まじかった。

 忠謙は切腹し、割いた腹に手を突っ込み、腸を引き出し、そばにあった木の枝に巻き付けたといいます。この状況を、蔵之元港で唯一(?)の食堂、えびす屋のご主人でありグラスボート「サブマリン号」の船長でもある岩崎明さんに伺ったときに、ゾッとしながら、幾つかの思い出を振り返っています。それは、吉田松陰の伝承や三島由紀夫の(これが現実と聴かされている)切腹のありようであり、私が新婚間もない時期に妻と交わした約束の1つです。

 吉田松陰は刑場で切腹させられていますが、とても見事な最後であったようです。その介錯をした侍が後年、「あれが吉田松陰であったに違いない」とその様子を語ったといわれます。対して三島由紀夫のありようは、その痛さに耐えかねたようで、背を海老のように曲げてしまい、とても介錯しづらかったようだ、と伝え聞いています。

 それはともかく、私は新婚間もない(まだしおらしかった)妻に、3つの「お願い」をしています。1つは「私が『聴け』といえば、私が話し終えるまで黙ってじっと耳を傾けてほしい」との願いでした。いずれは図々しくなって、心を高ぶらせると聴く耳を失ってしまう時期がいずれやってくるに違いないと思っていましたから、予防線を張っておいたわけです。

 2つ目は、「私が『買え』といえば」必ず次の2つを買ってほしい」と言って、「畳み1枚分ほどの板状の御影石」と「短刀」を指定しています。そして、「ここで買ってほしい」と言って特定の石屋と刃物屋の前に連れて行っています。加えて、妻の裁量で、買うか買わぬか決めればよいものが「もう1つある」と説明しています。それは自動映写機でした。

 これらはは許しがたい嫌疑などをかけられたときの準備でした。宮仕えする以上は、辞める寸前まで忠誠を誓う決意をしていました。それが母の私への教えのようなものでした。なにせ、わが家の家系では、私はサラリーマン第一号であったのです。ですから、勤める以上はそうした覚悟がいると思っていたのです。

 ですから、その時点にまで追い込まれたら、「御影石」を買ってもらい、その上で切腹して潔白を晴らしたかったのです。母はそのような潔さを好む人でした。ですから、切腹を選んだのは単に「カッコウがよさそう」と思ったわけではありません。同じ死ぬなら、介錯なしに、本当に見事な切腹ができるのか否か、試してみたかったのです。

 もう1つの理由も、母の影響です。私が15歳になった時に、母は「昔の人は」と、私の背にまわって私の髪を両手で撫でながら「元服」について語りました。同時に、元服すれば男の子は「切腹の仕方を学んだものだ」と(知ったかぶりをしていたのでしょうが)「男の覚悟」を迫りました。

 3つ目の妻の裁量に任せた「自動8mm映写機」(まだビデオもなかったころの話です)は、私が死んだ後の心配です。妻が生活費が心配な場合は自動映写機を買っておくとよい。そして「切腹の様子を(私は必ず)自動撮影しておくから」と約束しています。その版権を活かし方は自分で考えてほしい、と勧めたわけです。