まず私は、書生に対する指示の仕方を反省しました。言葉が足りなかったのではないか、と。同時にそれが「かえって良かったのかも」とすぐさま思い直しています。
水鉢をここまで見事に磨きあげられる人はめったにいないでしょう。私は同じタワシを用いてきましたが、ここまできれいに磨けたことがありません。伸幸さんは、水もきれいに替えていました。この見事な掃除ぶりに刺激されて、私は水鉢をより魅力的にしたくなり、幾つもの「水草の小鉢」を用意して沈めているほどです。温室の水槽で増やした水草を活かしました。
伸幸さんは、水鉢に水道水を張りおえた時点で、「金魚は、どうすればよい」のか、と私に質問しています。そばにあったバケツの中で金魚が泳いでいました。その水はそれまで金魚が棲んでいた水鉢の水を汲み置いたようです。きっと質問の趣旨は、金魚を(これまでの水から)いきなり「張ったばかりの水道水の中に移してよいのか」と、見てとりました。そこで「金魚だけ移してください」と答えました。これまでに、私も同様の躊躇をしたことがあります。ですから今では、張ったばかりの水道水の中に、いきなり移り棲まわせられるように金魚を慣らしています。
慣らしているというよりも、生き残れる金魚が残っている、といったほうがよいでしょう。いつも安価な小さな金魚をたくさん買い込み、残れるものを残しています。水などが合わずに死ぬ。水から飛び出して死ぬ。折よく飛び出したことを見とがめられ、助けられながら、また飛び出して死ぬ。せっかく大きくなりながら、猫などに食べられて死ぬ。こうした試練を乗り越えた数少ない金魚だけが残っているわけです。
次いで伸幸さんは「ヤゴが3匹いましたから、水鉢に戻しておきました」と報告しました。それは小さな「イトトンボのヤゴ」であったようです。そこで、「1匹だけ棲んでいたメダカはどうしましたか」とたずねました。
さあ大変、こころ優しい伸幸さんの恐縮が始まりました。その恐縮は、1匹のメダカを失った私への恐縮というよりも、棲んでいたメダカの命に対する恐縮のように感じられました。ですから、「それも運命ですから」と言わんばかりに「あきらめましょう」と応えました。
それにしても、と私は考えました。私などは、叱られたり注意されたりすると、そのこと自体を気にかけてしまいがちです。ですから、私は伸幸さんから学び取りたいことがあります。それは、叱られたり注意されたりした内容にこそ、伸幸さんのように全神経を注ぎ、叱ったり注意したりした人と同じ目線にたってコトに立ち向かう心構えです。このような感心をしながら、次のようなことを考えています。それはまず、金魚とヤゴの関係でした。
ヤゴは、注いだばかりの水道水の中にいきなり移り棲まわせておきながら、どうして伸幸さんは金魚を移り棲むわせることを躊躇したのか、ということです。次いで、一匹のメダカの命を奪ったことを気にしみながら、金魚やメダカなどを養うプランクトンなどがたくさん棲んでいた(はずの)水を、どうして躊躇することなく捨て去ることができたのか。
こうした水鉢に関わる問題だけでなく、伸幸さんは後刻、妻から別の指摘も受けたようです。それは伸幸さんが捨てた水の勢いにスミレが押しつぶされ、悲鳴を上げていたからです。スミレのことにまで目が向かなかったのでしょう。きっと伸幸さんは妻にもいたく恐縮し、率直に詫びたに違いありません。ですから、妻もとても気持ちが軽くなったことでしょう。
実は、この妻の指摘には1つのアイトワの精神が隠れていたのです。水鉢を綺麗にするのも大切ですが、もっと大切にしたいものがあるのです。それは水です。水を確保しておくことと、水の効能を活かしたいがために、水鉢をたくさん庭に設置しているのです。
わが家には、愛犬だけでなく、庭にやってくるイタチなど野生動物のために用意した水飲み場としての水鉢もあります。水鉢を数多く用意しているわけは、一帯の気温をまろやかにするためです。夏場は、蒸発や植物が蒸散させるときに奪う気化熱によって、冬場は、水が凍結するときに放出する潜熱によって、周辺の気温をまろやかにすることを期待しています。
もちろん捨てる水の活かし方にも神経を払っています。栄養豊富な水ですから、必ず鉢植え植物の水やりなどに生かします。第一、ジョウロやバケツに水道水を注ぎ込むより、水鉢からジョウロやヒシャクデで汲み上げる方が手っ取り早く、水を切らして悲鳴を上げている植物に即座に水を注いでやれます。
それにしても、長きにわたって一緒に暮らした伸幸さんが、覚悟をしていたとはいえ、いなくなったことは寂しい限りです。
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