同志社大学院の新校舎
 

 素晴らしい校舎でした。今どきの学生を羨ましく感じたほどです。「このような空間で学びたかったなあ」と思いました。もちろん、ちょっと気になった一面もあります。それは老婆心にすぎませんが、新装なった百貨店や、新たに誕生したショッピングセンターに足を踏み入れた時のような印象を抱いたことです。

 百貨店やショッピングセンターは、工業社会の産物です。そして今、断末魔の競争状態に入っています。要は、もはやその機能は不要になっているのに、ゆえに競争が激化しているのに、延命策に躍起になっています。機能の転換が求められているのに、これまでの延長線上で贅の限りを尽くすような競争をしています。その先は見えています。

 これまでの機能は、(抑制された)中世社会の(文化にいそしんできた)人たちの意識を転換させる役割でした。要は、贅沢の民主化を進めることです。工業社会は自然資産を好き放題使うことによって生産過剰問題を生じさせ、それまで許していなかった庶民に消費を促す必要性が生じた。この機能は、戦後の日本ではとりわけ功を奏しました。その時の好況のありように味を占めた人が、今もその延長線上を走り続けている例が多々見受けられます。もちろん、それが功を奏する消費者がまだたくさん残っているのも事実です。

 時代はむしろ、そうした消費者を「賢い消費者に生まれ変わらせる啓蒙」が求められています。「欲望の解放」はなく、「人間の解放」が求められています。

 戦後のスタート時点ではよく似た状況であった日独ですが、ドイツはこの啓蒙運動が相当進んでいる、と見てよいでしょう。この差異と、その是非の認識が、それぞれの国の命脈を左右することでしょう。うっかりしておれば、わが国はとても哀れな国になりかねません。余談ですが、安倍政権は、うっかりさせる悪しき方向にまっしぐらに走り出しています。

 つまり、日本も、高等教育の質的向上という奮起が求められてもいるわけです。このたび踏み入れたキャンパスが、その奮起の顕在化であってほしい、とせつに願いました。事実、私に求められた協力は、これまでの私の生き方を主たる事例とする修士論文の作成への協力でした。

 もちろん、私の生き方は、工業社会の破たんを想定した上に成り立っています。つまり、次なる社会を創出し、移行する上で、参考となるモデルの創出でした。ですから、「喜んで協力したい」と応えました。その後、次の約束までに少し時間がありました。そこで、次の論文の構想も聞かせてもらいました。実に、すばらしい主旨が述べられました。ところが、その現実化の手段を間違えている、と私には思われました。自然を阻害する社会が生み出した問題を、その延長線上にある手段で解消させようとしていたのです。

 実に素晴らしい教室で討議が進められていました。好天でした。しかし、目的と手段の矛盾がを指摘されないままに、発表時間は残り15分となり、閉塞感を私は感じました。窓外の和風の植え込みから目を転じた私は、差し出がましくも、意見を述べさせてもらいました。

 2300年前にアリストテレスは、人間が身に着けなければいけない2つの徳がある。机の上で学び取れる徳と、机の上では学びえない徳がある、と指摘しています。いわば、その論文構想は、後者の徳の必要性に気付いた人が、その徳を子どもたちに取り戻させようとするものでした。にもかわらず、机上の空論で時間が浪費されているように思われたからです。

 私のヒントを活かしてくれる人がいました。手段として、そのようなに人工物は不適切ではないか、との指摘です。しかもその人は、アリストテレスが指摘したように、その地方にある「豊かな自然を生かすべきではないか」と付け加えました。

 かくして、実に楽しい昼下がりの3時間を過ごせたわけです。
 


素晴らしい校舎

素晴らしい校舎

素晴らしい校舎

素晴らしい教室

素晴らしい教室