当日、学生当人が刈り取った夜叉竹は焚火で燃やし去りました。当日、当人には、再三見直しながら刈り取らせましたから、その直後に私が(探し出して)刈り取った量を知れば、「なんで!?!」とばかりに驚くことでしょう。
人間には死角があるようですし、必死で生き残ろうとしてあがいている夜叉竹にも、それなりの備えがあるはずです。ここにも私は自然の摂理を感じ取っています。
過日、彬さんは庭でスズメの子を拾いました。その子を、それなりの手筈を打って一夜を過ごさせましたが、残念ながら死なせました。そうなることを母鳥は知っていたから、巣から落としたのではないか、と私は思っています。逆に、自然界で立派に生き残れる(と親が判断していると思われる)子スズメを狙って、ヘビなどが巣を襲ったことを親鳥が気付いた時は、親は執拗に蛇に襲いかかり、多くの場合はヘビを退散させています。こうしたケースにも私は自然の摂理を感じ取っています。そこには、とても大切な、いきものとして心得るべき根本が隠されているのではないでしょうか。この根本も、言葉や文字では伝えきれない。
人間は、他の生き物と違って、とっさの判断や選択を迫られたときに、本能だけで反応すればよいわけではありません。本能と倫理(徳)の両方を働かせることが必要だと思います。それだけに、片手落ちの知識や、「悪しき道徳」の刷り込みを不安に思います。
とりわけ徳の多くは、机の上では学べそうにない、とアリストテレスも見ていたわけですから、私はなるだけ自然豊かな中で若者に、自らこの徳や智をに感じ取ってもらいたいと願っています。
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