。 福岡正信は「自分にとても厳しい人」であったに違いない、と私は見てきました。それだけに逆に、手が抜けるところは心置きなく抜くことができた人、ではなかったでしょうか。つまり、その峻別と優先順位けがとても上手にできた人であろう、との印象を私は抱いてきました。
ところがこのたび、きっと同じぐらいに、あるはそれ以上に、自分に厳しそうな人と出会いました。その人が(チラっとですが)福岡正信について発したコメントが、なぜか私の心をとても強くとらえました。その場には他に大勢の人がいたことでもあり、深入りはできませんでしたが、とても心残りになっています。
これまでに私は、不耕起栽培農法という言葉にひかれて手を出し、所期の目的を達成できず、不満を口にする人を多々見てきました。その人たちの共通点は、「不耕起」という言葉から(耕す手間を省けると早とちりして)手抜き農法と期待した(あるいは解釈した)かのような人が多く、期待した成績を上げられずに終わっていたように見ています。要は、不耕起であるがゆえにとても峻別と優先順位付けがむつかしい他の課題がつきまとうにもかかわらず、それまで手抜きできるとあらぬ期待をしたのではないでしょうか。
福岡正信も(不耕起栽培農法を広めたいがあまりに)耕す農法よりも難しい一面があることを、つまり峻別すべきことやと優先順位付けを間違ってはならないことが多々あることを説明していなかったのではないでしょうか。それは、各人が不耕起栽培農法に手を出した(その考え方に賛同した)以上は、努力目標(所期の収量期待)を達成するために、己のあらん限りの知恵と努力を傾注して土地柄にあった対処法(峻別と優先順位付け)を考えだし、実践すればよいだけの話、と考えていたのではないでしょうか。
福岡正信がアメリカで神格化され、著書『わら1本の革命』がオーガニック栽培農家の間ではバイブルのように見なされています。そのわけは、アメリカ人が「考え方」の是非を第一にして大切にしているから、と言ってよさそうです。多くの人は、その考え方に共鳴すれば、その考え方をわがものとしていかに活かすも殺すも各人の裁量次第、と見ているに違いありません。それがフロンティアスピリットのとても大切な一面ではないでしょうか。
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