「豊かさ」
 

 後藤さんにも同道してもらい、3人で往復3時間近く歩きました。その途中で2時間近くも僧堂で一息入れており、その間の1時間ほどを私は午睡に当てています。道中の坂道がかなりきつく、それほど疲れ果ててたどり着いていたのです。

 帰路、新緑がまばゆい道すがら、とりとめもない話をしていた時に、ひょいと舞鶴さんが「豊かさ」を話題に持ち出しました。その豊かさ観に、私はなぜか心を打たれました。私は豊かさの源泉は「日常のありよう」にこそ求めるべき、と考えています。つまり日々の生活の営みにこそ「豊かさ」を見出したい、「日々の生活の営み(自体)を芸術化したい」と願っています。この日の舞鶴さんの意見はこれ、これに似た豊かさ観でした。

 そこで私は、女性が生涯を通して食器洗いに割いている時間を例に引きました。ある北欧の国で、その膨大な時間に注目し、その割愛をテーマにして取り組んだ例です。それなりの成果を上げた話をどこかで読んでいたからです。食器洗い器の開発に結び付いた話であったように思います。ですから私は、食器洗器のわが家への導入を検討したように、記憶しています。

 事情があって未導入ですが、その代わりといってはナンですが、その時間をより充実するように私は心がけるようにしています。妻は食器を洗いながら、いろいろと思いをめぐらすに違いありませんから、その想いがより豊かなものであるように、と願っています。

 私の食器を洗う時は、私のことを考えてくれるかもしれません。私が急いで外出した時は、電車に乗り間違いをしていないかとか、夫婦ゲンカをしたときは、なぜケンカになったのか、などと考えるのではないでしょうか。ですから、「電話がないときは良い知らせ」と思ってもらえるように努めてきましたし、ケンかはするたびに仲が良くなるように「お互いの考え方を統一するための努力」であるように心がけています。

 もし、日常の家庭生活のありように「豊かさ」の源泉を求めず、例えば他のコトやモノに求めたとしたらどうなるか。私には、それは不安の源泉になりかねない、と思われるのです。