アイトワ流の庭仕事のありよう
 

 「実用的な多様性」と「自然農法」という矛盾した庭づくりを目指してしまった私は、55年にわたって葛藤する日々を過ごしてきました。

 実用的な多様性とは、(食べ物、香辛料、薬草、ないしは燃料など)日々の生活に供する草木や野菜などを多様に自給しようとする願いのことです。その中には、わが生涯ではおそらく実用に供することがないだろう、と思われるものまであります。その1例は、自生のコウゾやアオソ(カラムシ)を残したりしていることです。これらはわが国にワタが入ってくるまで庶民が衣服の原料にしていましたし、今もコウゾは紙の原料にしている植物です。自生に加えて、紙の原料で言えばミツマタも苗木を買い求めて育てています。

 こうした作物を育て、それらを原料として実用に生かす知識を備えようと努めていると、なぜか私は心が和みます。妻は最近、アオソの皮(繊維)で作った涼しそうなブラウスをもらっていましたが、その喜びを私は人並み以上に共感できたように思っています。

 今週は彬さんに、「あのブラウスはこの草から造られた」とか「この灌木も、縄文人は衣服の原料にしていたはずだ」などと教えました。

 自然農法は実に複雑な問題を抱えています。過日、彬さんが「1本のキャベツを生贄にする賢い方法を採用した」と見て、高く評価しましたが、「あれは何だったのか」と考えさせられています。彬さんは毎日続けて青虫捕りをすれば日に2〜3分ですむ作業なのに、その必要性に気付かず(?)、キャベツを(農薬がなかった母の時代から今日に至るまでに、わが家の畑では前例がない)惨めな状態に追い込んでしまったのです。もちろん、それでも私たち夫婦は食べますが、ヒトサマにお裾分けするわけにもゆかないでしょう。

 妻も見かねたようです。そのキャベツに、ついに手を出し、アッという間(5分ほど)に青虫を100匹近く捕りました。それを見て、彬さんも捕り始めていましたが、後が続くか否か、その気になってくれるだろうか、と祈るような気持ちにさせられています。

 キャベツ1つ取っても難しい課題を抱えているのに、年に40〜50種類できかない野菜や、200種以上の樹木を育てています。薬草などの草に至っては、カズを数えたことさえありません。

 農薬や化学肥料を絶対に使わないと決めることは尊いことです。しかし、それなりの覚悟と決意が求められる、と考えています。逆に、農薬や化学肥料を信奉するのは愚かだと考えています。いわんや、その毒性を認識しながら、採算性や効率性を目指して(手抜きがしたくて)弊害が出かねない使い方をしてしまうことは犯罪行為にも近い、と観ています。わが国の農産物には、残念なことですが、詐欺行為に近いと思わざるを得ない表示例が散見されます。

 わが家ではコメを、特定の農家から定期的に買っています。そのご主人の(農家としての)「供給責任に対する強い意識」を感じたからです。無農薬有機栽培を旨としている農家ですが、「一期に一度だけ農薬を使う可能性がある」ことを認めてほしいと頼まれ、「理想」と「現実」を合致させる難しさを心得ている人と見たわけです。つまり、自然を相手にした露地栽培農業は、人知の及ばないことがまま生じかねません。その予期せざる災難を、なんとか己の力で克服したい、との強い意思表明と感じたわけです。

 裏返していえば、「一度だけ」をいいことにして(無断で)農薬や除草剤などを複数回にわたって使いかねない人か、否か、を私は問題にしており、無断では使わない人との判断を下したということです。実は初めてのスリランカ旅行で知り合い、その期間中ツインルームを共に使う仲になり、その判断を下しています。そこで(帰国後、妻と相談のうえで)契約しました。やがて代金は定期的にまとめて振り込み、コメは月ごとに定期的に送ってもらうようになっています。

 「信用が第一」の時代になる、それは「結果」より「経過」(どのような「プロセス」を経てその結果に結び付けたのか)が問われ始める、が私の(1973年来の)持論です。農業もその例外ではないはず、と見てきました。そこでアイトワ方式を構想しています。ここで、その一端に触れたく思います。

 アイトワの野菜作りも無農薬・有機栽培を旨としています。しかし、農薬や化学肥料を買い求めています。それはなぜか。このたび、その良い例が生じました。

 昨秋の大胆な庭木の剪定と、このたびの厳しい日差しと渇水が重なり、サクラなどが極端に弱っており、おのずと食害が目立つようになり、木を枯らしかねなくなりました。そこで、先週初めに、わが家流の(こまめに狙い撃ちする)農薬散布方法を彬さんに指導し、弱った2本のサクラの他に、新芽をことごとく食べられたビワの苗木2本と、鉢植えの(長野の友人からもらった)リンゴと(大垣を去るときにもらった記念樹の)ヒメリンゴ各1本に散布してもらいました。おかげで何とかそれらの木々は息をつなぎました。

 先週の木曜日(彬さんが外泊する前日)に、その第2回目散布が必要と認め、彬さんに狙撃方式の散布を頼んでおきましたが、彼は散布せずに出かけました。2泊の予定が3連泊になり、案の定、その間にヒメリンゴの幹にズイムシが侵入しました。そこで帰宅後、(こまめな狙い撃ちに加えて)「適時(タイミング)の大切さ」を目の当たりにさせています。

 余談ですが、わが家ではリンゴ(例外の2本を除き)、ナシ、ないしはブドウは育てていません。それは、毎年のように農薬散布をしなければ育てられない気候と見て取ったからです。

 農薬散布の一般的な問題の1つは、散布した農薬の大部分が無駄(飛散して土や水に吸収されるなど)になっていることです。その最たる例は飛行機などでの空中散布です。おそらく(私のイメージに過ぎませんが、私が採用している)ピンポイント攻撃方式と比べたら(背負式の噴霧器で通常のまき方をしている1万倍もの)、飛行機の空中散布なら10万倍もの農薬を用いていることでしょう。

 ですからわが家では、いわゆる無差別絨毯爆撃のような散布は絶対にせずに、狙撃方式を採用することにして、農薬を導入しました。例えばわが家では、樹木に隋虫が入ったりすると、注射器を用いて狙い撃ちし、危険を感じさせて1匹ずつ穴から出させ、捕まえて踏み殺しています。

 再び余談ですが、この考え方は、寄付行為にも適用しています。わが家はわが家なりに寄付行為もしていますが、いわゆる世間並み以上の寄付は狙撃方式を採用しています。たとえば、自給自足生活をしている(少数民族などの)人たちが、想定外の風水害などに襲われたときです。一時期の災難さえ乗り越えれば後は立派に自活する道を探す気力と意欲を備えた人には手を差し伸べたく思い、わが身の程をわきまえた範囲ですが実施してきました。その要領で果樹も見ており、ピンポイント方式の手を差し伸べて来たわけです。

 それだけに、庭に棲む昆虫など小動物を24時間監視委員として尊重しており、神経を払って観察を怠らないようにしてきました。

 話を、化学肥料に替えます。カフェテラスにデビューさせる鉢植え植物では、デビューさせる前とか、追肥を要した場合は(有機肥料が放つ匂いや虫の誘因を避けるために)化学肥料を用いています。化学肥料の場合も、労を惜しまぬ丁寧な活かし方をしているつもりです。

 むしろ私は、市販されている発酵鶏糞、油粕、あるいは有機石灰など(を買い求めて用いていますが、それら)がホルモン剤などで汚染されているのではないか、気がかりです。

 農薬や化学肥料に関するそもそもの問題は、それらが手抜きをするために用いられていることです。これは医療問題でも同じことが言える、と考えています。私は、基本的には(体を正常に保とうとする)漢方医療の支持者です。だからと言って西洋医療の否定者ではありません。不覚にも、異常を生じさせてしまったときは(対処療法の必要性を認めたときは)躊躇なく西洋医療に頼ります。そして、その世話ならなくて済む生活を目指し直します。

 もちろん漢方医を盲信しているわけではありません。漢方で用いる薬草の多くは、量を間違えると毒になるものが多々あります。しかし、その諸刃の剣である点の東洋医学の認識が、近代西洋医学の薬剤に対する認識よりもはるかに進んでいるように見ています。

 ですから私は健康かと言えば、現実はそうは甘くなく、今の私は心臓欠陥者ですし、これまでに腸を除く他のすべての臓器を傷めています。でも、心がけは大切にしているつもりです。要は、まだ(人類史から言えば)緒に就いたばかりの(手探り状態の、あるいは日進月歩の)近代科学をいかに見定め、その成果をいかに峻別し、活かそうとするかにある、と見ています。その峻別の第一は、医師や法人の技術、知識、ないしは設備などを問題にするだけでなく、その考え方(倫理観、価値観ないしは美意識など)を問題にすべきだと思っています。

 毎度の大げさな言いようですが、人類は存亡の危機に立たされている、と見ています。打開策は、「古人の知恵と近代科学の成果をうまく組み合わせ」、「日々の太陽の恵みの範囲で生きる道」を打ち立てる他にない、と私は見ています。この意味で、農業こそが「信用が第一」の時代になる、と考えているわけです。それだけに、この面で(自然エネルギーの面も含めて)わが国は極めて、ひときわ現自民党政権は危険な道を突き進んでいます。

 彬さんの「理想」は尊いと思いますし、優しい心も認めます。しかし、それを裏打ちする実践が伴っていません。まず「覚悟や決意」に欠けています。そこで、アイトワにいる間に、せめてアイトワ程度の「覚悟や決意」を固め、アイトワ程度の実践を目指そうではないか、とけしかけたわけです。

 


1本のキャベツを生贄にする賢い方法を採用

前例がない)惨めな状態に追い込んでしまった