晩餐の会話 |
まず、なぜ3か月でけじめをつけるのか、それを語りました。けじめをここでつけなければ、ズルズルとした関係になり、双方にとってよろしくない、と語らいました。要は、彬さんにも居候の甘えが出そうですし、私も便利な労働力として甘えかねません。 アイトワは、家族がその気になって手を合わせれば、誰にでも実現可能な庭づくりを目指しています。その関係で、説明がむつかしくなる外部の助力はなるべく避けたく思っています。 「さとり世代」も話題にしました。1980年代後半以降の生まれで、25歳までの若者をそう呼ぶのだそうです。短大時代の私は、この世代の若者を「バブルの落とし児」と呼んで、注目していました。日本中の大人が有頂天になり、わが世の春を謳歌していた時期に生まれた世代です。 「ボクは1988年生まれです」と彬さんはいいました。数年前から訪れるようになった佛教大学の学生もこの世代です。こうした人と、それ以前の人を比べたら、私の体験からも、この前後で、若者の心は大きく変わっていそうだ、と思われます。 じつは、このままでは日本は「ダメダ」と思った私は、1986年春にアイトワを立ち上げています。そして、その年から若者相手に、次代に備えた生き方を身に着けてもらうおうと、時給700円のアルバイトで庭仕事に従事させるプログラムを組んでいます。 今の「泉」は、このアルバイト高校生によって掘ってもらいましたが、この場合は、たった1日の作業だけで相手にされなくなっています。スーパーでレジのアルバイトをすれば冷房が効いている、と言ってフラレタわけです。大なり小なり、この程度でした。 ところが今日では、わがやの庭仕事を体験するために、定期的に訪ねてくれる若者が表れているのです。それも、女子学生の比率が次第に増していますが。そして、酷暑の下でのきつい仕事に、むしろ女子学生の方が積極的に取り組む傾向です。 1986年当時の私は、バブルに浮かれ始めた大人たちに不安を抱き、サラリーマン生活から脚を洗っています。子どもたちへの悪影響に嫌気がさしたわけではなく、工業社会そのものの破たんを必然と見たからです。次代の創出と移行を急ごう、と呼びかけたくなったのです。さもないと資源小国の日本は惨めな状況に追い込まれかねない。逆に、次代の創出と移行に成功すれば、日本は最も尊敬される国になれる。その選択が急がれる、と訴えたくなったのです。 2年がかりの作業になり、処女出版にこぎつけたのは1988年初夏になりました。バブルが絶頂期に差し掛かっており、大人がもっとも有頂天になっていた最中でした。「日本を1つ(当時の地価で)売れば、アメリカが(当時の地価で)4つも買える」とか、「年功賃金、終身雇用など日本式経営の勝利」、あるいは「欧米に学ぶものは今やなし」などと浮かれていました。この時期に三つ子の魂を養われた子どもたちを、昨今「さとり世代」と呼びはじめたわけです。 こうした時期に三つ子の魂を培われた子どもたちは、その後、物覚えがつくころから反転した社会で生きることになり、沈んだ心境に陥れられたのではないでしょうか。大人がこぞって「そんなはずではなかったのに」とばかりに浮き足立ち、沈み込み、それぞれの人がその本性を露わにし始めたわけですから。 リストラスする人、される人。勝ち組と負け組。貧富格差と相対的貧困層。さまざまなハラスメントとココロのケア。ウルトラミニスカートの氾濫と女性専用車。様々な現象となって現れました。煎じ詰めれば、甘ったれたり、油断したり、ボケたような話が多くなったことです。 このようなことも語り合い、お互いに足元をみなおそう、と語らいました。 きっとこれからは、人間の定義が問われ直す時代になるだろう、真善美の追求がさかんとなるのではないか、と私は述べました。 過日の「クライム」と(安倍さんが軽く扱う)「シン」の話でいえば、「シン」の尊さが見直されるだろう、と思います。「クライム」は時代や権力の都合でドンドン評価が変わり、功罪が逆転することもありますが、「シン」はそれらを超える力を持っている、と思われます。 こうしたたわいのない話をしながら、少しアルコール分量を増やし、夕餉を楽しみました。 |