ルーチンワークで後藤さんを迎える日であったからでしょうか、まず後藤さんの2日前の奇妙な眠り方を思い出しています。
人は疲れると、奇妙な眠り方ができるのです。上を向いて居眠るのは何の不思議もありませんが、片方の足のありようです。左足の膝を曲げ、その脛を(4本の指を組んだ)両の手で押えたまま眠ってしまっていたのです。それは、極度に足を疲労させてしまったせいでした。
次いで例外の夕食を振り返りました。時節柄の京弁当が振る舞われました。しかも、3つ余分に用意して、和尚さんと一緒に寺を守っている人だけでなく、妻も楽しませてもらえました。祇園祭はハモ祭りとも呼ばれますが、ハモの箱寿司はもとより、さまざまにハモが活かされていました。小さな粽(ちまき)も添えられていました。妻が楽しそうに食した姿を思い出しました。
当日は、丑三つ時から三三五五に仮眠に入りましたが、私は半身の構えで眠ったことを思い出しています。
これらの何もかもが、20年以上も続いてきたアイトワ塾故のありがたい出来事であったように思われたのです。この思い出のひと時も、体の不調をすっかり忘れさせていました。
それはともかく、アイトワ塾でなかったら、私はキャンセルしていたと思いますさ。心配をかけるだけでなく、多大な迷惑をかけるわけですから、それで当然です。
アイトワ塾でなかったら、こうは行かなかったと思うことが多々ありました。アイトワから大悲閣のそばまでの険しい道のりを、後藤さんの軽4輪で送り迎えをしてもらえたのです。しかも後藤さんは、軽4輪でも怖いほど狭い起伏のある崖道を4往復もしました。片方は嵐山の急な山肌であり、他方は保津川を望む断崖です。この道を、すべての荷物と半数のメンバーを軽四輪で運びました。これにはおまけがついていたのです。
そのおまけは1本の電話が、後藤さんのケイタイに入ったことから始まりました。後藤さんは、軽4輪のフロントガラスに、1枚のお知らせを張っておいたのです。何せ、離合が極めて難しい道に停車して一泊させるわけですから、何が生じるかわかりません。
大悲閣からそうとう離れたところに後藤さんは停めていましたから、その地点まで走り、離合できるところまで車を動かし、事なきを得たのです。実は、後藤さんが車を停めたところより上手にホテルがありますが、そこの従業員が軽四輪で帰宅したのです。問題はその後でした。
やっと離合を済ませたと一安心したその時に、反対方向から別の軽四輪が近づいてきたと言います。女性の運転でした。後藤さんの車と鉢合わせし多と知った瞬間に、その女性は固まってしまったようです。夜勤の従業員であったようです。
やむなく、後藤さんはバックで断崖の坂道を上りはじめました。ソロソロと、ちょっと行ってはブレーキを踏み、ハンドルを切り直し、何度も何度も同じことを繰り返したわけです。そのせいで、後藤さんの膝が、カクカウカクっと笑い始めてしまったのです。
ちなみに、一泊2日にしたもらえた出張もありがたかった。その際のホテルにはお気に入りの温泉がついています。いつも夕と朝の2度、リラックスさせてもらっています。おかげで、2つの外部関係者を迎えた会議のオブザーバー参加をことなくこなせました。
この週末のことです。佛教大学の池田駿リーダ−も、かつて肋骨にヒビを入れたことがありましたから、セキやクシャミの辛さなど、奇妙な共感関係になれました。
|