在宅でのVacationという意味だそうですが、わが家は、少なくとも妻は完全に、このStaycation派です。わが家は先週も(私の水曜日を除き)Staycationでした。
その体験から推し量ると、いずはもっと良い造語が誕生するに違いない、と思われます。いや、もっと良い造語を誕生するような時代になってほしい、とこの造語を知った時に思いました。
なぜなら、この言葉を知ったときに、時代の変わり目を感じたのですが、つまり一つの兆しと見たのですが、まだ、工業社会の美意識や価値観が色濃く残っており、その外発的な喜びを重視する美意識や価値観のもとでのStaycationである、と見たからです。要は、美意識や価値観が転換し、内発的な喜びが普遍化する時代の造語ではない、と思ったのです。
それは、とても惨めに思われた過去の記憶を、頭の中で振り返っていたからです。初めてのヴェトナム旅行をした折に、サイゴン(今はホーチミン)で観た空間のことです。贅沢の限りを尽くしたような閉鎖的な空間でした。
ゴジンジエム元大統領の館であり、館の中には映画館やバーはもとよりミニ歓楽街のごとき刺激的な(外発的な刺激をそそる)施設がそろっていました。小さな淡水魚が水草の間を泳ぐ大きな水鉢はまるで小宇宙、と見とれました。そのありように重苦しいものを感じています。
この施設は、中が覗けないような頑丈な塀で取り囲まれており、いざという時に一家が逃げ出すための大きなヘリコプターやヘリポートが屋上にありましたし、立派な地下道もありました。ゴジンジエム元大統領は何を求めていたのだろうか、と思案させられています。
その夫人は「人間バーベキュー」という造語の発案者として知られる人です。それは、ゴジンジエム政権(が守ろうとした社会)のありように反対して、あるいは反対する人々への弾圧を見かねて、僧侶が次々と路上で焼身自殺をしましたが、そうした僧侶の総称です。
記録映画によれば、読経が終わるときは、僧侶がコトリと焼け崩れるときでした。駆け寄る女性の姿も映っていました。駆け寄って地に伏し、身をよじるようにして祈っていました。
「人間バーベキュー」と呼ばれた僧侶たちは、何を願って一命を惜しまなかったのか、と考えさせられたものです。一命をかけるに値する何かを内に見出していたのでしょう。寄って地に伏し、身をよじらせて祈っていた女性は、内に何を見出していたのか。そうした人々の心をひきつけてやまなかったホーチミンは何を願っていたのか、とも考えました。これに見習って、パラダイムの転換や、せめて美意識や価値観ぐらいは転換したく願いました。
それはともかく、私は、各人がもって生まれた固有の特性を潜在させたまま、生涯を終えてしまうのは残念でなりません。それら潜在能力を出し合い、愛で合う社会になってほしい、と願っています。それは少しも難しいことではない、と考えています。
たとえばその証拠に、「オフクロの味」という言葉がありました。「地震、雷、火事、オヤジ」という言葉もありました。結婚し、子どもに恵まれた女や男は、たいがいの人が、このオフクロの創出者にされ、オヤジにされて慕われていました。なろうとしたわけでなないでしょうが、「オフクロやオヤジ呼ばわりされて」「こよなく懐かしまられる人」になっていました。
その後、科学が進み、教育が普及し、女性の社会進出が捗りましたが、「オフクロやオヤジ呼ばわりされ、こよなくしたわれる大人」が増えていません。逆に、「大人の一時的な都合で、私たちの未来をこれ以上汚さないでください」「私たちの夢を奪わないでください」と叫ぶ子どもを、増やしていた恐れがあります。
決して私は、科学、教育、あるいは女性の社会進出などの近代化を否定しているわけではありません。むしろ大の肯定者です。わが家のありようは、古人の知恵と、近代科学の成果の融合からなりっています。それだけに、科学、教育、あるいは女性の社会進出などへの手放の評価に不安を感じているのです。
ですから先週は、16歳になったばかりのマララ・ユスフザイ(Malala Yousafzai)さんの発言も尊いけれど、高校2年生の戸苅春香さんの訴えの方が「生きとし生けるもの」にとってより深刻な問題であり、重要な問題だ、と思っていたわけです。
にもかかわらず、日本の大人はなぜ戸苅春香さんの口封じをし、それを許し続けているのか、と寂しき気持ちに今も苛まれているのです。
逆に、本音を好き放題吐露した(と多くの人が見ている)麻生副総裁を、「撤回します」や、安倍総裁の「撤回しました」で、済ませかねなくなっているのでしょうか。
Staycationに話を戻しますと、それは安上がりでも、一種の逃避でも、いわんや根暗な時の過ごし方でもない時空であってほしい。テーマパークなどでうろうろしたり、食べ放題に我を忘れたりする時空とは異なる(Alternative)時空で、こころ穏やかに過ごせるひと時であってほしい、と願っています。その造語としてふさわしいのか、と思っています。
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