函館は学生時代に青函連絡船で渡り、函館山から五稜郭を眺めたきりでしたが、このたびは五稜郭にも立ち寄れました。それはひとえに、友人夫妻のおかげです。最初のトルコ旅行で知り合った高橋洋次夫妻の世話になったのです。
函館には2つの期待を胸に秘めて訪れましたが、付録がついたような気分です。2つの期待とは、時代の変わり目に生じる美意識や価値観の転換を目の当たりにすることでした。その1つは、五稜郭の展示物や買い求めた書籍などを通して感じたことで、文化崩壊の一面です。他の1つは、五稜郭箱函奉行所の再建時に凝らされた技などに見出せたもので、古の文化への郷愁です。
高橋夫婦は空港まで出向き、翌日の夕食まで付き合ってくださった。寿司屋で腹ごしらえのあと、漁火が望めたお宅でお二人の趣味を目の当たりにさせてもらいました。恭子さんご自慢のテディーベアーのコレクションは、限定版や稀少品が数多く含まれており、様々な思い出が伴っていました。洋次さんは乗り物の模型のコレクションが見事で、昔懐かしい車両を手にするたびに過去を振り返りました。冷房がなかった時代の満員の通勤を思い出したり、車中のテレビで熱中した4連投の稲生投手の好投ぶりを思い出したりしたわけです。
函館山の中腹から遠望したり、元町教会堂の境内を廻りながら眺めたりした夜景は見事でした。旧函館区公会堂は、今は文化行事に生かされているようです。赤レンガ造りの元倉庫群は商業施設として生かされており、観光客でにぎわっていました。
翌日は鉄分の多い谷地道温泉で始まり、大雨の下で露天風呂も楽しみました。市電にも乗りましたし、夕刻は岩板浴のあとビアホールで締めくくっています。その合間に、どんぶり横丁をうろついたり、蔵を改装した喫茶店に立ち寄ったり、五稜郭を訪れたりしたわけで、何とも充実した時間配分でした。
「勝てば官軍」ではありませんが、明治維新に対する私見の反転を確かなものにできたようです。日本はここから間違った方向に走り出してしまったようだ、と私見を改めました。江戸という巨大な循環型都市を構築するなど、ほぼ形成し終えていた凛とした文化や民族性を台無しにしてしまい、ついには太平洋戦争にまで突っ走らせたのが明治維新ではないでしょうか。この思いは、先年沖永良部島を3度にわたって訪れたりして描き始めていたイメージを下敷きにして、育て始めていたものです。
その悪しき余韻が今も足を引っ張っており、先進工業国の中では循環型社会への転換が一番遅れそうだし、太平洋戦争の清算も出来ず、歴史認識に劣る国との印象を世界の心ある人々の脳裏に色濃く焼き付けさせつつあるのではないでしょうか。
五稜郭タワーでは(妻は高所恐怖症ですから足をすくませていましたが)、緻密な人形も活かして明治維新の様子を再現していました。五稜郭のアカマツの古木は見事でした。五稜郭箱函奉行所では巧の技術が総動員されたような印象を抱きました。
とりわけその瓦の再現で興味をそそられました。数種の色合いの瓦を、わざわざ不均質な瓦を、昨今の技術を駆使して焼かせていたのです。さもないと、近年の工業化が進んだ技術(均質を金科玉条のようにおもう意識)では均一な瓦しか焼けないからです。
先年観た東本願寺などの解体修理では、痛んだ瓦を破棄して新しい瓦と差し替えるのではなく、少なくとも人目に付くところでは、すべての瓦を新しい瓦に総入れ替えていました。それは古い瓦と新しい瓦の色合いなどが揃わず「見苦しい」との理由です。
そうと知った折に、私は違和感を(あえて言えば、まだその意識から脱却できていないのか、との時代遅れの観を)覚えましたが、五稜郭箱函奉行所の再現瓦を見て、得心です。
ここに、農業時代と工業時代の差異、美意識や価値観の移り変わりを見て取ったような思いに駆られるとともに、美意識や価値観の転換がいよいよ露わになりそうだ、と感じています。
友人の案内がなければこうも欲張った動きはできなかったことでしょう。加えて、決して味わえていなかった体験もありました。そのさいたる例が「岩板浴」と「ベコ餅」でした。
岩板浴では計1時間ほど熱せられた岩板の上に寝そべり、パジャマを汗でグショグショにしました。絞ると、バケツから取り出した雑巾のごとく、汗が音を立て流れ落ちました。べこ餅は黒砂糖の甘さで、歯ごたえに特色がある印象深い食べ物でした。また食べたい。
紋別の友人・佐藤次郎夫妻は、遠軽の駅頭で迎えてくれました。最高温度が20度Cの日でしたが、「今朝、ストーブに火を入れた」と聞かされました。そこから一路車で紋別を目指したわけですが、ある誘惑に道中で負けてしまい、なんともゆったりした優雅な時間を過ごすことになりました。「ベルガモ(タイマツソウ)の群生地がある」と聞かされたからです。
「沼の上」という集落がある、という地点で山の方向に折れ、トドマツの林をぬう山道に入りました。山はすでに初秋の様相でした。
次郎さんが車を止めると、十史子さんはスタスタと背丈を超えそうなブッシュの中に分け入って行きました。私はオッカナビックリ、負けじと後を追いました。2人がどんどん分け入るのを見て、しり込みしていた妻も車から出てついてきました。「ありました」。ただし、夫妻が期待したほどの大群生ではなかったようですが、私たち夫婦にとっては十分以上で、容易に大群生を想像出来ました。
これで終わりませんでした。未舗装の道にまで分け入ったのです。そして車を停める機会が増え、ついには十史子さんと妻は車を降りてスタスタと前に前にと歩み始めました。そして「ホレ!」とでも言いたそうに、次々と道すがらの野草の花を車中の私のもとに届けました。
私は次々それを手持ちの本の間に挟み込み、その本を座席において太ももでプレスです。かくして押し花の土産ができました。
残念な光景も目にしました。山間の中ほどに広大な皆伐地があったのです。気がかりは、誰が手をつけているのか、表示は見当たらず、皆伐の目的を推し量れなかったことです。山並みを巧みにいかし、死角を狙ったかのように、人里から望めない位置が皆伐されていました。
その後、走り馴れたオホーツク海とシブヌツナイ湖の間の道に入ってもらいましたが、幾度となく車を止めてもらい、海岸をうろつき、ハマボウフウの花殻を見つけています。
思えば、紋別は幾度も訪れていたのですが、肝心の冬場を知らないことに思い至り、悔やんでいます。氷上を走るガリンコ号の登場を知っていながら乗らず終になっており、今はU号が登場していました。
思わぬ所で旭山動物園の弱点に気づかされました。来園者の心をつかむ技の巧みさで有名な動物園ですが、それまで(つまり動物園という閉鎖空間での技)止まりではないか、との疑問です。それは「フラミンゴが可愛かった」との一言から始まったことです。旭山動物園から逃げ出し、小樽を経てシブヌツナイ湖に飛来したそうです。そして捕獲作戦が展開されたわけです。
逃げ出したフラミンゴは、風きり羽が切り取られていなかったわけですが、捕獲のための囮(おとり)として連れてこられたフラミンゴは切り取られていました。その囮に油断させて捕まえようと、時間をかけたようですが、そこに失敗の元が隠れていました。
鳥目のきかない夜分になり、フラミンゴの活動が止まったのを見定めて、要員はホテルに引き上げたのでしょう。問題は、動物園の中であればそれでよかったのですが、野生のイタチ、ミンク、あるいはテンなどが生息する地であったことです。風きり羽を切り取られた囮は、ピョンピョン飛び跳ねて逃げたのでしょうが、文字通りに御馳走にされてしまったのです。
翌日は、オホーツクタワーと、世界で唯一の流氷科学館に案内してもらい、妻にも生きたクリオネを見せたり、零下25度Cを体験してもらったりしました。私は陸に上げられたガリンコ号Tを見たり、ガリンコ号Uを写真で知ったりして喜んでいます。
最後は友人の家で大きく育ったボダイジュを眺め、大型機が離発着できる新しい紋別空港まで送ってもらいました。
|