教員時代に「単位を人質に取られているから」との苦情を学生から聴かされたことがあります。学生が思い切った発言をしないので業を煮やし、問いただしていくうちに聞かされた言いわけです。その時の心境を、このたび思い出しました。
ディオバン剤にガッカリして、それ以上に、ディオバン剤を製造する製薬会社に対して医療業界が、本来なら患者に代わって烈火のごとくに叱責するのが筋ですが、その様子が一向にうかがえないことにガッカリして、自衛策に取り組み始めていたのです。
要は「これを期に人体実験でもするか」との心境にされており、「一切服薬をやめていたのです」。ところが、不整脈が出始めるなど、弊害に気付かされました。やがて不整脈だけでなく、ニトロ剤を手放しがたい心境にもされ、やむなく私流の服薬再開です。
もっと正確に言えば、服薬をやめて5日目ごろから不整脈が再開したわけですが、これは体質の問題と見て楽観していたのです。ところが、やがて息苦しさが加わったわけで、29日からディオバンを除き服薬し始めたわけです
その際に不思議な想いに駆られています。血圧は終始正常であったおとです。この間は、毎日血圧を測定し、妻に褒められています。問題は、服薬を再開したわけですが、その薬の多くは血圧を下げる薬であり、不要ではないかとの疑問を抱いていることです。
とはいえ、今のところ、親身になって相談できる医者や、医療機関に私は恵まれていません。また、「下手に大幅な服薬剤の調合を変更すると、なんらかのバランスを崩しはしまいか」との心配もあります。もちろん、この峠を越えたら薬なしにそれなりに生きることができるようになり、薬断ちができるのではないか、との期待を抱きましたが、かなわぬ夢です。
それはともかく、おかげで、木曜日の夜と金曜日の朝の2度にわたって、とても幸せな気分にさせてもらえました。
夜は、やすむ前に、妻に不要な心配をさせたくなかったので、自分でニトロ剤を取りに起きています。そして寝床に戻りますと、妻がまだ眠りについておらず、「足でももみましょうか」との誘いに、「悪いなあ」と思いながらのったことです。
朝は、5時に目覚めましたが「生きていた」とまず考えており、ただそれだけのことなのに、とても嬉しく思いました。ですから、再び「悪いなあ」と思いながら、なぜだか妻に説教することを控えてしまっています。
やすむ前の「悪いなあ」は、世話のし甲斐のない私のポンコツ身体に世話を焼かせることに対する思いから出たものです。後の「悪いなあ」は、私が不正直であったことに対するそれで、妻の未来に想いを馳せることを放棄したことへの反省です。
つまり、妻は前夜のうちにすべきことを忘れていたのですが、叱らなかったのです。それは、生ゴミを堆肥の山に積みに行っておくことを、していなかったのです。それはゴキブリの養殖行為だと教えていながら、叱らなかったのです。もちろん、妻が自分で出来ないときは、私に代行させればよい、と言ってありますが、それもしていません。
ここが大事なところですが、妻にいわせれば、私が「しんどそうに見えたから」と言いたいでしょう。でもそれを、私は身勝手な屁理屈と思っていることです。もっと正確に言えば、そのような配慮を良かれと見なしていたら、独断と偏見の温床になりかねません。
私の「シンドイ」という言葉を聴いたうえで、「今夜はサボって、ゴキブリを喜ばせましょう」とでもいって合意し、そうした合意を積み重ねてゆくのが夫婦だと思っていることです。
話を、「単位を人質に取られているから」に戻しますが、日本の医者はかわいそうに思われてならない、ということです。人生と才能をもてあそばれたような存在に甘んじている、と思われてならないのです。つまり国民の不健康を未然にふせぎ、いかに服薬の用を失くすかが本来の姿なのに、製薬会社の手先でもあるかのごとくに、対処療法に終始させられているからです。
その経済的な損害の甚大化よりも、医療機関と患者との間に生じさせかねない疑念のほうが私は心配です。このことに心ある患者の多くはこれに気付いています。しかし、「命を人質に取られているから」言えていないだけです。
|