良き収穫
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知覧では、まず茶畑の見学です。萩原先生が学生を引率したという無農薬有機栽培に取り組み始めた農家で、6年前から始めた苦労談なども伺いました。土産でもらった無農薬有機栽培の緑茶は安心なだけでなく、実においしい。それは樹勢を弱らせないために、茶摘みを抑制せざるを得ず、元気な葉を用いていることも関係しているようです。 一帯は、日本で第2位の面積を占める茶畑が広がっており、2期にわたって切り拓かれたそうです。第2期は敗戦後の引揚者がく取り組んだ、と聞かされました。時期がとても良かったようで、茶の木の色合いから畑の土地の様子が手に取るようにわかりました。 つづいて知覧平和記念館に向かい、特攻隊の歴史を学んだり、特攻隊員が出撃する前日まで寝泊まりして三角兵舎を覗いたり、少年兵の特集展示に触れたりしました。 現実の三角兵舎は「こんなものではありませんでした」と案内いただいた教育委員会の人は語っていました。戸板などありあわせの木材だったし、布団も近隣住民が持ち寄ったものであったようです。まさに国民があげての戦いの様相であったわけです。 新聞の投書欄によれば「戦争に負けてよかった」との声がありました。「勝っておれば、国民は軍部の奴隷にされていました」との意見でした。隠れ念仏の資料や、戦時中の生活をしのばせる展示なども見ました。その後で、今に残る隠れ念仏遺跡の見学です。このたびの見学では、「立山のかくれがま」だけでなく、「盗人穴」にも足を延ばせました。後者は、今日の一般道路から200mほど山肌沿いに下ったところにある渓流沿いにありました。 圧政に絶えてのことでしょうか、あるいは過酷で単調な生活に、なんとかして生きる希望を描きたくて、めいめいが心に描いた「理想の世界」を励みにしたのでしょうか。いずれにせよ、とても心を穏やかにさせる環境でした。 それにしても、見つかれば同志が一蓮托生で命を奪われかねないのに「どうしてこのようなところにまで足を運んだのか」との思いに強く駆られました。その責め方は想像を絶するようなところがありました。 磨崖仏の見学もできました。「これほどのものが」と感激です。一部崩落の危機が迫っていましたが、何とか保存できるようにと願わずにはおれませんでした。 このあとで、水俣市役所の職員であった吉本さんと再会。天野さんが経営する天の茶園を訪れました。ここは祖父が種から育てた実腸の茶園も引き継いでおり、その無農薬有機栽培の茶はしだいに評価を高めています。 雨が降り出しましたが、私の「なんとしても」との願いを入れてもらい、天野さんに杉本さんのお宅まで連れて行ってもらいました。仏壇は、かつて泊めてもらった部屋にありました。さまざまなことを思い出しました。お宅の前には、ハマユウが咲き終わったあとでした。わが家には、この子どもが育っていますが、今年も咲いてくれるかもしれません。 引き続いて、かつて吉本さんが館長をしていた水俣資料館を訪ねています。もちろんここでも杉本さんの遺影や葛藤の歴史に触れています。短絡に言えば陰惨なイジメでした。 当時、チッソは毒まんじゅうを主だった漁民に食わせるようなことをしています。行政が裏に控え、チッソが操り、漁民が陰湿なイジメを繰り広げたわけです。 後ろ髪を引かれる思いで水俣を後にして、車を飛ばし、田浦に移動。マルタを訪ねました。語りたいことがるる山ほどありますので、後は次回に回します。 |
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土産でもらった無農薬有機栽培の緑茶 |
茶の木の色合いから畑の土地の様子がわかりました |
茶の木の色合いから畑の土地の様子がわかりました |
三角兵舎 |
三角兵舎内部 |
戦時中の生活をしのばせる展示 |
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「立山のかくれがま」 |
「立山のかくれがま」 |
「盗人穴」 |
「盗人穴」 |
一般道路 |
渓流沿い |
磨崖仏の見学もできました |
説明板 |
磨崖仏 |
磨崖仏 |
磨崖仏 |
崩落の危機が迫っていました |
崩落の危機が迫っていました |
無農薬有機栽培の茶は評価を高めています |
水俣資料館 |
水俣資料館 |