奇妙な安堵感
 

 

 安倍首相は、何を考えているのでしょうか。ぶっつけ本番ではなく「招致したいとの一念で」推敲に推敲を重ね、45分におよぶスピーチになったとのことですが、堂々と真顔で大ウソをつきました。

 日本人の中で、福島原発事故やその放射線漏れについて、「ブロックできている」と思っている人は誰一人としていないはずです。「コントロールできている」と思っている人もいないはずです。第一、その後、東電の副社長がNHK-TVのインタビューをはじめ、直接の関係者がブロックできていないことを嘆き、コントロールしがたい深刻さを吐露しています。安倍首相はどのような定義のもとにコントロールとかブロックという言葉を用いたのでしょうか。

 オリンピックを「辞退すべきであった」との友人の意見に私は賛成です。日本に対する信頼度を高めるために、たとえば、「この度は辞退する」「近く見事にブロックし、コントロールして見せる」「そのあかつきには東京に、次の次は東京に」と訴えるべきではなかったでしょうか。要は、この事故を世界のテーブルに乗せて、まず収束させてみせるべきであった、と思います。

 多くの選手が不安を抱き、「東京には行きたくない」とこれから言い出さないでしょうか、それが心配です。開催できない事態も想定しておく必要がありそうです。

 高嶺の花をなんとしても捕まえたいとの思いで、出まかせを述べる青年を見たような気分にされました。IOCは「上手に嘘をつかせて、上手に乗ったわけだ」と、思いました。それは食い逃げに結び付けさせはしまいか、と勘繰りたくなります。くわえて、日本人が、とりわけスポーツ選手までが、かくも熱狂するとは思いませんでしたから、驚きです。。

 「こんなに日本人が、喜びの表情をあらわにしたことはかつてない」といった報道をした海外メディアがありましたが、私は戦時中のチョウチン行列の印象が残っていますから、あの時と似ているなあ、と思っています。

 あの時代はと似ており、経済的に沈滞していたようです。ですから、ある人は大本営発表を聴いて、「ひと暴れ出来る」と思って喜んだのでしょうし、ある人は「ひと儲けできる」と考えたり、またある人は、容易に「女中をつかえる」世の中になる、とあらぬ夢を抱いたりして熱狂したのでしょう。要は、多くの国民が浮かれたがっていた時代であったのでしょう。

 実は、首相が大ウソをついて「TOKYO」となった時に、私は「案の定」と思っています。前回の当週記では、知人が述べた「東京に来るはずがない」との意見に私は賛同しています。その原稿は、すでに後藤さんの手にわたっていましたが、「載せないで」と頼むのも、内容の修正を求めるのも簡単でした。でも、していませんし、する気になっていません。

 「案の定」というよりも「シメタ」と思った、といった方が正確です。

 太平洋戦争では、国民にたいして「皇軍」の向かうところ敵なし、「必勝」の聖戦であると信じ込ませ、国民に辛酸をなめさせました。結果的に「必勝」は大ウソになりましたが、安倍さんを見ていて、ウソの自覚がなかったのではないか、などと思い始めています。現政府は、その張本人を軍神のごとくあがめています。ですから、国民は保証がされておらず、「必勝」を叫んだ職業軍人の多くは、まるで食い逃げしているかのようなことになっています。

 同様に、原発問題では、結局税金での尻拭いが必定となっており、責任の所在をうやむやにしており、[原子力ムラ]の人たちは食い逃げできそうになっています。

 このたび「シメタ」と思ったのは、「そんなことになっては大変だ」との想いです。この大ウソを活かして、まずは原発事故を収拾させてしまうことが肝心だ、と思います。