この人たちのために
 

 

 わが国では服飾デザイナーを養成する学校がたくさんあります。何せその前身の多くは、かつては「良き花嫁」を育成する機関であったからです。他方、その就職先は減少傾向です。なにせ、わが国で流通している衣料品の点数は、9割以上が輸入に頼るようになっているからです。「日本流の服飾デザイナー」を目指して学んだ人たちを、いかにして生かすべきか、とても重要、緊急、かつ深刻な課題です。

 これまでは日本のアパレル企業がその人たちを吸収してきましたが、もはや無理です。なぜなら、日本のアパレル企業は属性に振り回されがちで、本質を大切にして来なかったからです。

 たとえばアメリカなどでは、100億円の年商であれ、ブランドが1つであれば、デザイナーは1人であり、アシスタントを加えても数名です。年商1000億円でも1つのブランドで、という会社がざらであり、それは本質を大切にしている結果です。

 他方日本では、100億円の年商であれ複数のブランドを打ち出していることが多く、しかもブランドの刷新も激しい。それは、色柄、生地,あるいは形などといった属性に傾注し、属性の多様性を競うやり方であり、おのずと大勢のデザイナーなどを抱えざるを得なくなっていました。そのやり方が日本のアパレル企業を凋落させたり、衰退させたりしてきたのです。

 かくして生じる服飾デザイナーの余剰をいかに生かし、できれば日本の衣料市場の活性化に結び付け、やがては日本の活性化に結び付けるか。深刻な課題だと思います。

 この課題に応えるために、このリクチュール企画に私は取り組んでいます。それは、なんとしても「この道で生きてゆきたい」と願っている誠実な若者に、これなら継続的に生きてゆけそうだ、と胸を張ってもらいたいと願っているからです。たとえ一筋の光明であれ、その一筋を手繰り寄せれば、堅実に生きてゆけそうだ、と実感してもらいたいのです。

 過日の九州旅行では、神風特攻機だけでなく、回天や震洋という特攻兵器や、それで死んでいったあまりにも多くの若者の手記などを見てきましたが、やるせない気分でした。2つの回天基地では、敗戦後に若者が異なる基地で各1人自決していました。ふたたび、こうした二十歳にも満たないような若人を死地に追いやったり、それにも近い心境にしたりするのは忍びないことです。いわんや、追いやっておきながら自決出来ない年長者になるのは辛いことです。